見出し画像

ロバの話

今から2年前、「ロバの話」というのがネット上で話題になった。
トヨタ自動車の社長が株主総会でマスコミを批判する際、この話を引用したのがきっかけだった。

ある老夫婦が飼っていたロバを市場へ売りに行った。
二人でロバに乗っていると、「二人で乗るなんてロバがかわいそうだ」という人がいる。
夫だけがロバに乗っていると、「爺さんだけが楽をして婆さんがかわいそうだ」という人がいる。
妻だけがロバに乗っていると、「爺さんを歩かせて自分がロバに乗るなんてけしからん女だ」という人がいる。
二人ともロバに乗らないで歩いていると、「あいつらはロバの正しい使い方も知らないバカだ」という人がいる。

出典:『ろばを売りに行く親子』

要するに何をしても批判されるということをこの話になぞらえて表現したのだ。
僕はこれを考えた時、物事の本質にも通じるものがあると思い、話題として取り上げようと思った。


この話は作り話で老夫妻がどういう状況におかれているかは詳しく書かれていないが、二人にとってはこの四つのうちのいずれかの方法を取るしかなかったのだろう。
そうだとすれば、どの方法で目的地まで行くのがベストかは何をもっとも優先するかによって変わってくるはずだ。
二人ともロバに乗っていたなら、とにかく目的地に一刻も早く着きたいと思っていたのかもしれない。
あるいは二人とも今はとにかく楽をしたいと思っていたのかもしれない。
夫だけがロバに乗っていたなら、夫の身体を大事にすることを優先したのかもしれない。
もしかしたら夫が病気を患っていたのかもしれない。
妻だけがロバに乗っていたなら、それと逆かもしれないし、夫が愛妻家で妻を気遣ったのかもしれない。
二人ともロバに乗らないでいたなら、ロバという財産を大事にすることを優先したのかもしれない。
どんな物事にも正と負、陽と陰、長所と短所がある。
英語で言うと"positive"と"negative"だ。
批判しかしない人というのはネガティブな面ばかりに目をつけて言っているに過ぎない。
マスコミが批判ばかりに偏ってしまうのは、マスメディアという媒体の性質に大きく関わっていると思う。
例えば、情報番組でなるべく世間の多くの人々が関心のある話題を優先して取り上げる傾向があるのは、放送局にとって視聴率がすべてではないにしても、それが会社としての収益に直接関係してくるからだ。
世間の人々は世の中で起きている様々な問題に不満を抱いている。
視聴者はそういう不満を代弁して言ってくれるような番組を求めている。
だから、批判ばかりに偏ってしまうのは、そういう視聴者の意向に沿うような内容の番組にした結果なのだろう。
コメンテーターが建設的な意見を言うこともあるが、マスメディアというのは政府や会社の意思決定に多少影響を与えることはあっても、そもそも積極的に問題に取り組むという立場にない。
だから、さっき書いたような老夫妻の立場に立って考えるという姿勢に欠ける。
問題を解決したり方向性を決める時は、良い面と悪い面の両方を考えて何が最善かを判断すると思うのだが、当事者ではない第三者はそういう責任を負っていないからだ。
「批判からは何も生まれない」と言われるのはそのためだと思う。


すべての物事には一長一短があるという視点を持つと色々なことが見えてくる。
学生の時、クラスには様々な人間がいたが、それは大人の社会になってもそんなに変わらない。
クラスには様々な個性の人間がいて、そういう人間が大人になって会社に勤めたりするわけだが、職場というのは学校の教室の大人版だ。
もちろん子供と大人の社会には違う面もたくさんあるが、人間の本質は変わらないから、学校時代のクラスは大人の社会の縮図のようなものだ。
クラスには目立つ人間と目立たない人間がいた。
そして、目立たない人間よりは目立つ人間のほうが一般的に上に見られたり、羨ましがられたりする。
それは目立つということは「人気者」とか「みんなに好かれる」というイメージがあるためだろう。
しかし、目立つほうが目立たないより優れているとは必ずしも言えないのだ。
目立つ人は多くの人に注目されるわけだから、何か褒められるようなことをすればそれだけ自尊心や虚栄心を満たせるかもしれないが、逆に何か非難されるようなことをすれば矢面に立つ危険性もある。
しかし、目立たない人は褒められもしないかわりに矢面に立つ可能性も低いという良い面もあるのだ。
目立つ人にとっては目立たない人のほうが時には「生きやすい」ように見えて羨ましく思っているかもしれない。
男だったら親しい仲間うちであの女は「美人」だとか「かわいい」とか「ブス」だとか言うと思うのだが、それは他愛もない会話のなかで言ったことであって、本質はそんなに単純ではないと思う。
「美人だけどかわいくない」「ブスだけどかわいい」という表現もあると思うのだ。
僕は昔、付き合った女が性格が良かったので、「俺はおまえの中身が好きになったんだ」と言ったら、喜んでもらえると思っていたら意外にもふてくされたような顔をして、「それじゃあ私のルックスは好きじゃないの?」と聞かれ、慌てて「いや、もちろんルックスも好きだよ」と言ったのだが、取ってつけたような言い方になってしまい、失敗したと思った。
僕はまぎれもなく彼女のルックスも好きだったのだ。
だから、「おまえの外見も中身もすべて含めて好きになったんだ」と最初から言えば良かったのになぜそれが言えなかったのだろうと後悔したのだ。


物事の外面ばかりに捉われることは内面を軽視することにつながりかねない。
以前レストランで食事をしていたら、若い女の子が彼氏と一緒に来ていてパスタを食べていた。
彼女がなぜか気になってちらちら見ていたら、食べ方が上品過ぎるということに気づいた。
彼女はフォークでパスタを3本ぐらいしか取らずに口に入れていた。
「もっとたくさん頬張っても男は引かないのに…そこまでする必要はないのにな」と思わざるを得なかった。
それ以来、飲食店で食事している女の子を見ては、そういう女の子が多いことに気づいてしまった。
もちろん、だからといって人目も気にせず「ガツガツ食べろ」とか言っているわけではない。
ただ、もっと自然体でいいと思う。
僕は若い頃、『メンズノンノ』とかのファッション雑誌を買って、そういう雑誌に出ているモデルのような服を着て洗練された男になりたいと思っていた。
だから、そういう服を買って着たりもしたが、性に合わないせいかあまりそういうことはしなくなった。
渋谷なんかへ行くと僕が憧れていたような雑誌のモデルそのままのような格好をしている若い人を見かけることもある。
しかし、そういうのをあまりカッコいいと思わなくなった。
そういう人を見ると、何か「気張っている」ようにしか見えないのだ。
女性でも上品に着飾って素敵だなと思う人はいるが、だからといって関係を持ちたいとはあまり思わない。
何か「お高くとまっている」ように見えて、もし声をかけられるようなシチュエーションになったとしても敬遠すると思う。
あくまで僕の個人的意見だが、そういう女性にはとっつきにくさのようなものを感じてしまうのだ。
人は外見を通してその人の中身を見ている。
背伸びをすることはマイナスになることもある。
ありのままの自分に魅力があればうわべを飾る必要はないのだ。
等身大の自分に自信を持って生きるようにするのがより洗練された生き方だと思う。


視点を変えると、それまでの視点では見えなかったものが見えてくることもある。
僕は絵画についてはまったくの素人だが、絵画の世界でもそれは表現されている。
ピカソの絵は対象を多視点で把握して解体し、幾何学的に単純化・抽象化して再構築するキュビスムという技法で描かれているらしい。
そのピカソに影響を与えたのが「近代絵画の父」と呼ばれているセザンヌという画家らしいのだが、個人的にはピカソの絵よりセザンヌの絵のほうがわかりやすいと思う。
セザンヌはテーブルの上にある果物や瓶を描いた絵が有名だ。
それまで主流だった遠近法と言われていた技法は一つの視点から見えた対象を描くというものだったが、ピカソの作風が変わっていった背景にはそれまでの絵画が写真に取って代わられるという危機感があったらしい。
そういう画家が表現したかったのは目で見た世界と心で見た世界は違うということなのではないか。
カメラで同じ方向から撮った被写体は皆同じに見えるが、人間には心の目というのがあるために同じ対象を見た場合、人によって見え方が違うはずだからだ。


物事には異なる要素が一体化して存在することがある。
音楽の世界でもそれは表現されている。
音楽の和音にはメジャーコードとマイナーコードがあって、メジャーコードは明るい響きなのに対しマイナーコードは暗い響きなのだが、セブンスコードというメジャーとマイナーの両方の響きを合わせ持った和音がある。
例えば、ド・ミ・ソという和音がCというメジャーコードなのだが、ミを半音下げてフラットのミにするとCmというマイナーコードになる。
つまりメジャーコードは根音と第2音の間に鍵盤が3つあるのに対し、マイナーコードは2つあるだけの違いなのだ。
付け加えるとメジャーコードは第2音と第3音の間の鍵盤が2つで、マイナーコードは3つということになる。
しかし、Cというメジャーコードにシというセブンスの音を加えて4和音にすることで、ソとシの間の鍵盤が3つになり、ミを根音にしたマイナーコードができることになるので、メジャーコードとマイナーコードの両方の響きを持った和音になるのだ。
芸術性というのは単純に明るい感じとか暗い感じと割り切るのではなく、楽しさのなかに切なさがあったり、繊細さのなかに大胆さがあったりという言葉を超えたもののなかにこそ感じられると思う。


なぜ桜が日本人にこれほど馴染み深いのだろうか。
桜はもともと日本に自生していたが、有名なソメイヨシノは江戸時代の植木屋が売り出したものを接ぎ木や挿し木によって日本の各地に繁殖させたものらしく、クローンなので一斉に散るようになっている。
桜の咲く季節になると人々は陽気になり、酒を飲んで浮かれたり仲間とふざけ合ったりする。
花見は平安時代から始まったらしいが、日本人が昔から桜に惹かれた理由はただ美しいというだけではないのだ。
桜というのは咲いている時が短く、散る時はぱっと鮮やかに散る。
その様を人々が人生のはかなさと重ね合わせて心惹かれるようになったらしいのだ。
僕は昔、そこまで深く考えて桜を見たことはなかったが、そういう話を聞いて以来、そういう目で見るようになった。
靖国神社や千鳥ヶ淵で満開の桜が散っているのを見た時は特攻隊で死んだ人や戦没者の霊が脳裏に浮かんできて悲しく見えたのを覚えている。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という言葉も同時に浮かんだ。
桜の咲く季節は日が暮れる頃になると「花冷え」と言ってひんやりした感じがするが、それもあいまって悲しい心持ちがしたのだ。
隅田川の桜を見る時は滝廉太郎の「花」という歌が頭のなかに流れる。
「はるの、うららの、すみだがわ」で始まる有名な歌だが、手漕ぎの船が川を往来していた昔の情景が浮かんできてしみじみした心持ちになる。
上野公園の桜は花見の時期になると訪れるたくさんの人々を待ちわびていたように咲いていて、花見にはうってつけの場所という感じがする。
それぞれの場所や時によって桜が違って見える。
僕が若い頃のようにただ「桜は綺麗だから人々が見るのだ」という単純な視点しか持っていなかったら、このように感慨深く見ることはなかったのだ。


この記事は読者が大切なことを見極めるうえでの一助になれば幸いという気持ちで書いた。
僕は記事を書く時は文章で表現できることを書いているに過ぎない。
文章で表現しづらいことはほかの手段で表現すればいいわけで、文章を書く時はなるべく文章でしか表現できないような題材を扱うようにしている。
やはり論理的に話を進めたい場合は文章が向いている。
そういうわけで僕が書いた記事はあくまで僕という人間の一面でしかない。
僕は物事の「心」や「芯」というものを重視している。
英語で言うと"heart"と"core"だ。
ネット上には様々な記事が乱立しているが、文章の素人が書いた記事が圧倒的に多いのがネットの特徴だ。
僕はネット上に素人臭い文章があまりに多いことが気になり、文章の玄人ではない僕でも言葉の使い方はちゃんとしようと心掛けてきた。
そういうものを守ってこそ論理的な話もできると思う。
言葉の使い方がきちんとしてない人はどうしても「この人は中身がしっかりしていない人なんだな」という印象を持ってしまう。
音楽にしろ英語にしろ基礎をしっかり学んだ人とそうでない人は外に現れるものが全然違ってくるのだ。
内面は外面に現れる。
外面を磨くことばかりに気を遣って内面を磨くことをおろそかにすべきではないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?