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デザイン業界28年目を迎えるに当たって総括をしてみた

2019年4月13日本日46歳になりました。
誕生日が4月なので同時に新しいくキャリアの年度が始まります。
広告業界、デザーナーとして28年目がスタートします。

事前になんとなく呼びかけたTweetで、私のキャリアと仕事に対する思いや心構えなど乗り越えた壁や今後の展望を交えて簡潔に書いてみようと思います。
まず私は高校卒業と同時に地元のデザイン事務所で新卒採用として働き始めます。
当時はまだ[ #紙版下 ]の時代で、ケント紙に製図ペンとロットリングで枠線書きや図案や書き文字もまさに名の通り手書きの時代でした。
文章や見出しは「 #写植 」と言って印画紙に文字を焼き付けする職人さんが居り、そちらに原稿をFAXして作ってもらうというのが普通でした。
文字の拡大や縮小も、簡易暗室のような装置で印画紙に焼き付けをしたり写真に直接手書きで補正したり、切り抜きもカッターで一つ一つ切り抜いて貼り付ける・・・そんな時代からスタートしています。
私の担当は新聞掲載や折込などの仕事がメインで、たまにパッケージなどもやりましたが、ほとんど新聞社さんとの仕事がメインだったので、この事が私の将来の仕事に対する考え方を決めたと言っても過言ではないでしょう。
今まで秘密にしていましたが、実は私にも若い頃があったんです。今の私しか知らない人はなかなか信じてくれませんけどね。それこそ駆け出しの頃は文字ミスなど有ろうものなら、そく新聞社に呼び出されて泣くほど怒鳴られて説教され仕事の厳しさと向き合うべき真剣な気持ちを叩き込まれました。そのぶん良い出来の時は素直に褒めて頂き、その説教が仕事に対する情熱と私に対する愛情だと感じることが出来たのも大きかったでしょう。その分成長も早く作業スピードも上がり割と界隈で知られる新人と成っていく訳ですが、そこから色々と勘違いしてしまいます。

そんな膨大な手作業の時代なので、フリーランスという業態は本当に稀でしたが、色々と調子に乗って2年半くらいで退職してフリーランスに成ってしまいます。
この頃なんとなくDTP成るものが広がり始めてきたタイミングで、MACで枠線とトンボくらいは作ることが出来るように成っていました。その後数年してようやくテキストの入ったデータを作って高解像度レーザープリンターで出力したものにフィルムを張って、そこに写真原稿を貼り付けて入稿すると言う感じにまで成ってました。その当時私が使っていたのが「Power Macintosh 8500」です。高い買い物でしたがそんなに稼いでいたかというと実際にデザインで稼いでいたのは収入の半分くらいで、取引先もそんなに確定しておらずアルバイトなどしていた時期が多かったです。昼間アルバイト夜はデザインと言う生活が3年くらい続いて、休みの日も演劇や映画製作、スポーツや漫画を書いたりアニメ作ったり車やバイクレースしたり・・・濃密な人生を送っていましたが、そのせいで20歳結婚し21歳で離婚するはめになります。今考えてもあの生活について来られる人はいないだろうと思ってます。

ちょっと戻ってフリーランスになりたての頃、最初の営業先は元の取引先に成るわけですがそのへんはちゃんと退職時に勤め先にも話をして筋は通しました。仕事をやると言われたのですがそれは自力でどこまで出来るか試したいと言って断ったんですが、まぁ格好つけすぎましたよね、普通に考えて。新聞社さんには多少お仕事頂きつつ見知った個人商店などから細々と仕事をもらって、先に書いた映画などの自主制作活動のロゴ制作や印刷物の制作が切っ掛けでなんとなく声かけていただいたり・・・当然安定収入に成らなくてバイトする訳ですがそれも色々有りましたがそのへんは別のお話として。

昼夜仕事をしてる生活が当たり前になってくると、なんかもっとどっちの時間帯も収入を増やせないかと考えるように成り、デザインの仕事も増えてきているのにかかわらず地元に有る某世界企業の地方支社に入社してしまいます。今ほど副業がどうこううるさくないというか、そんな考え自体無いと言うか、そんな時代でしたので社内でも大手を振ってデザイナーやってますなんてことを言って周りそこでも仕事をもらい月収は当時の同年代の平均を軽く超えていました。自分凄い仕事できるぜ!とここでも勘違いします。収入が多いのは単純に働きすぎてるからでしか無いんですよね。なので全然貯金とかしないで使いまくってました。レースで車もバイクも廃車になったり食事も高級店と食べまくり、ちょっと休みが取れたら一人旅で日本中など何と言うかエネルギーの塊でした。すべてのものを燃やしながら走り続ける機関車のようだったと思います。

ですがそんな自分に人間関係のトラブルが有り、学生時代からずっと遊び友達だった親友からの手痛い裏切りを受けて色んなことに対して一度情熱が冷めてしまいます。そこで一度デザインだけに向き直そうとするんですが、改めて自分のデザインを見た時に、あまりの進歩の無さに愕然としたんです。ここで色んな事を考えます。仕事も遊びも真剣だったはず、何一つ手を抜いて生きてきてはいないはずだ!自分自身そう思っていたけれどそれは結局コレという芯がないままだった、自分はデザイナーになりたかったんじゃないのか?今のままで良いのか?ではどうするか?勉強するには厳しい世界に身を置くしか無い!となれば新天地でやり直そう!そうだ東京行こう!!27歳の秋の出来事でした。翌日、その場で書いた退職願を提出したときのことは今でも覚えています。

きっちり一ヶ月後に退職し、その翌日には車に荷物を詰め込んで下道を走り一路東京へ!
途中大阪の友人宅へ遊びに行ったりして3日かかりましたが、地図雑誌を頼りに先に借りる契約済ませていたアパートへ向かう先はなぜか神奈川県大和市。いきなり東京行くのが怖かったんです。理由は自分でもわかりません。

見知らぬ土地では営業とアルバイト探しですがアルバイトは早々に決まり佐川急便で夜勤の事務へ、ここでも色々ありますがそれもまた別の話なので割愛させてもらいますね。
この時身につけた営業方法は物凄く有意義でした。もうインターネットの黎明期を抜けた辺りだったので求人も何もかもネットで条はがどんどん探せる時代に入りかけていました。だから逆に情報の少ない求人雑誌で見かけたデザインの求人先にバンバン営業をかけていきます。なぜバイトとデザインの仕事を昼夜逆転したかと言うと、この場合の営業はアポ取って会いに行くことが想定されたから、昼間自由にしたかったためです。同時にwebの仕事もしたいと思うように成って個人サイト制作レベルを脱するためにちょっと勉強したりチャットサイトのマスターをやったり色々手を出していました。このへんの原動力は寂しさだった気もしますね、なんせ殆ど知り合いいなかったので、都内に数人同郷の友人がいましたが皆社会人だしめったに連絡してなかったです。チャットなどのおかげで知り合いはどんどん増えましたし営業のかい会って仕事もすぐに確保できました。まぁ内容はピンクな感じがほとんどでしたけど・・・この時はイラストの仕事もしていましたが、後々自分の才能の限界を感じて単体でのイラストに仕事はやらなくなります。

そうこうしている内に知り合いの知り合いみたいな関係から、都内のあばら家を改装して共同生活しませんか?と言う打診を頂き自力で床の張替えや壁の補修や、自力で〇〇開通させたりして何とか住めるようにして、見事都内へ進出します。
バイトも辞めてそこからの1〜2年はあらゆる業種のデザインを吸収しようと仕事をしまくりました。その成果として仕事関係の繋がりも増え、地元で若くして大手企業に役職も貰っていたというキャリアも役立ちスタートアップ企業の制作部役員として迎えられることになります。ここで芸能関係、テレビ・ラジオなどのいわゆる業界の仕事を3年位経験させてもらいますが自分の中で本業はデザイナー!と言う気持ちが無くなることはありませんでした。3年の期限付き入社で期限と同時に退職します。勿論後継者も部署もしっかり育てたと思っってます。そのため何日も会社に泊まり込んでは仕事をしたり、オフィスが秋葉原だったので鶯谷のラブホテルを1人で泊まり歩いたりしてました。あらゆる書類制作や法務関連、広報関連、など色々勉強したのはこのときです。

退職後にはデザイナーに戻り家も一人暮らしへと変わり、また前と同様の営業をしつつ今度は芸能関係の繋がりからもお仕事を頂いたりで人脈が一気に広がります。到底想像していなかった大手さんとも繋がりができ、取材や記事自体書いたりもこなすように成り、いろんな有名人と会うことになります。勿論先方は覚えていないと思いますけど私には色々と糧になりました。

そんな営業先の一箇所が最後に努めたデザイン事務所で、制作部の主任としてラブコールを頂き入社しました。この会社も散々いろんな事件がありましたが今となってはいい思い出です。4年ちょっと努めて、その間に結婚し子供も出来て、家事を負担もでてくるだろうなどと妻と相談した結果フリーランスに戻って家事を受け持とうと決心したあの時からはや7年。

朝6時に起きて家族の食事を作り、子供を保育園に送り届けて洗濯して掃除して、夕方まで仕事したら今度はお迎えに行って夕食作ってお風呂に入れて寝かしつけして、ウトウトしそうな自分を奮い起こして深夜過ぎまでまた仕事して・・・
そんな7年間を過ごしてきたしこれからもそれは変わらないと思うけど、よく聞かれるんですよ「辛くないですか?」って。

そう聞かれるといつも考えます。
辛いってなんだろうな?って。病気して寝込んだ時、それでも家事と育児は待ったなし!この状況は確かにしんどい!イライラしたりするときもある。締切に追われているのに子供が寝てくれないとかも同じかな。まぁそれもこれも「来月仕事の予定がないけど・・・」に比べたら大した悩みでもないが、そんな状況も年々無くなっていくし本当に辛い時って何かな?

私はデザインの仕事、というかこの業界に居場所がなくなることを考えたらそれはもう怖くて悲しくて涙が出そうになります。まじで。
家族の誰かがいなく成ることを考えても同じ気持ちになります。
私はこの仕事を愛しているし、この仕事から愛されていると思っています。
だからずっとこの業界にい続けているし、仕事の中身や成果にもこだわっているし、そう思えば必然的に仕事の上流を見ることに成って今はディレクターやプロヂューサーの立ち位置に居ることも増えました。
この世の誰と過ごした時間より、誰のことを考えている時間より一番がデザインなんです。自分の人生の一部とかでは無くて、デザイナーで在るという事が私自身だとさえ思います。
家族のように、自分自身のようにデザインという仕事に向かい合いたいと考えています。

だから誰かにデザインで一番大事なことは何かと聞かれたら私はいつもこう答えます。
「デザインに一番大事なのは愛だよ」

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masa@MR,BRAIN

1992年ごろから広告業界で何とか食べてきてます。 グラフィックデザイナーと言う肩書きも、色々な変化を経て広告ディレクターなどと自称していますが、ようはフリーランスで広告代理店のようなことをしています。

仕事思考

仕事を通して、または仕事そのものに関わることをお伝えしたいと思います。
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