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【ホラー語り】#3 村上龍より学ぶ、ホラー映画の存在理由

時として小説は1つの"答えらしきもの"
心にポツンと落としていくことがある。

ホラー映画の存在理由は何か?

今回はこの問いに対して私の心に答えを落としていった小説
村上龍の「インザ・ミソスープ」を取り上げる。

村上龍 インザ・ミソスープ

あらすじとしては、正体不詳のアメリカ人 フランクと 歌舞伎町で夜の街をアテンドすることを生業とする主人公 ケンジが出会うことから始まる、年末の新宿を舞台にした物語だ。

インザ・ミソスープはその内容から問題作として知られているが、
私は今まで読んだ小説の中でも指折りの名作だと思っている。

村上龍らしいイデオロギーに満ちた文章で2人の不完全な人間を描き、
不完全な国家である日本までも浮き彫りにしたかと思えば、サイコホラーど真ん中の狂気をみせ、年の終わりと共に消え入るような哀愁に満ちたラストを迎える。

感情を揺さぶりつづける、実に人間臭いサイコホラーだ。
この文章をここまで読んでいただけた方にはぜひおすすめしたい。

ただ今回は作品に対する深堀りではなく、正体不詳のアメリカ人 フランクが作中でホラー映画について言及する内容を取り上げたい。

彼はホラー映画についてこう語る。

基本的に、ホラー映画が好きな人は退屈な人生を歩んでいる、
刺激を欲しがっていて、そして彼らは、安心、したいんだ、
どきどきする映画が終わって、自分や世界が依然として
ちゃんと存在していることで、安心する、
それがホラー映画の本当の存在理由だ、
ホラー映画はショックアブソーバーの役目を果たしているわけで、
だから、この世から、ホラー映画が消えてしまったら、
想像力の不安を解消してくれるものが一つなくなって、たぶん
猟奇殺人は飛躍的に増えるだろう、
ホラー映画を観て殺人を思いつくようなバカは、
殺人のニュースを見ても殺人を思いつくものだよ、
村上龍 インザ・ミソスープより引用

どうだろうか。私がシンプルに共感したのは

自分や世界が依然としてちゃんと存在していることで、安心する、それがホラー映画の本当の存在理由だ、

という部分だ。

たしかにホラーは非日常性の塊だ。
ファンタジーと同列に語れるジャンルといえば、その通りである。

ファンタジーと異なるのはやはり「死」が近いという要素だろう。

ホラーにジャンルは数多くあれど、
共通点は「死」を近くに感じることにある。

心霊、呪い、猟奇殺人---。

これらを通して、私たちは非日常性を感じる。

そして、どこかで遠くで感じていた「死」を
少し身近に感じようとするのだ。

身近に感じるからこそ「恐怖」という感情が生まれる。
嫌悪感と共に、「怖いものみたさ」という未体験への好奇心が働く。

そんな自分の中の心理装置と対峙しながら、
ホラー映画という1つの娯楽を愉しむのだ。

そして、作品が終わると同時に身近だった「死」が離れる。

そこで初めて自分が「生きている」という実感を持つ。
なんとなく今自分がいる世界が少し確実なものに見える。
そんな感覚にどこか安心する。地に足がついたような感覚だ。

要するに、フランクのいう通りホラー映画が好きな人は
刺激が足りない人生を歩んでいるのかもしれない。

いや、確実に刺激が足りないのだろう。

ただホラー映画はただ刺激を与えてくれるだけではないのだ。

「死」といういつか必ず訪れるが、近いようで遠い存在を
身近に感じさせてくれる稀有なツールなのだ。

命の大事さを伝える 実話に基づいた ヒューマンドラマもあるだろう。
それを否定するつもりは毛頭ない。だが、それらには 刺激はないのだ。

じわりと心に染みるような感動を与えてくれるが、
ホラーのように

「自分や世界が依然としてちゃんと存在していること」

を感じる余白はないのだ。

エンターテイメントとしてのホラーも十分に面白い。
その一方で、村上龍の「インザ・ミソスープ」は

ホラー映画の存在理由として

「生きている自分を実感する 内省的なツールである」

という、一つの”答えらしきもの"を提示してくれたのだ。

小説を通して映画を学ぶ、そんな体験もあるんです。
本当に読書はセレンディピティの宝庫です。

こんな体験が小説を読む、モチベーションにもなりますよという話。
ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございました。

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