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日本神話ゆかりの地を訪ねて(後編)

前編では、天叢雲剣/草薙剣の神秘についてお話しましたが、後編では、複数の神社が織りなす「陽の道しるべ」「近畿の五芒星」という2つのレイライン(Ley Line)(注1) についてご紹介し、それらが形成された謎に迫ってみたいと思います。
 
(注1) レイ(Ley)とは「神聖で重要な地点」という意味合いを持つ言葉で、直線的に並ぶように造られ遺跡に関する仮説で使われる言葉(Ray Line=光の道ではない)
 
1 陽の道しるべ
国生み神話では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天浮橋に立ち、神々から授けられた天逆鉾で海を掻き回すと、於能凝呂島(おのころじま)ができたとされています。
 
二神は、その島に降り立ち、目合ひ(まぐわい)によって大八島(おおやしま)、すなわち淡路島をはじめとする、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対島、佐渡島、そして本州を生んだと伝えられています。
 
於能凝呂島が一体どこなのかは定かではありませんが、淡路島にあるおのころ島神社は、於能凝呂島の伝承地のひとつとされており、少なくとも淡路島が日本創世期の中心地と言えそうです。

高さ21.7mの巨大鳥居は、日本三大鳥居のひとつ
おのころ島神社(Photo by ISSA)

この、おのころ島神社から北東に20kmばかり進んだところに伊弉諾神宮があります。ここには「陽の道しるべ」と呼ばれる石碑があり、「春分の日と秋分の日に、太陽が通過する北緯34度27分23秒の線上に伊勢神宮伊弉諾神宮対馬海神神社が一直線に並ぶ」と説明されています。

伊弉諾神宮の石碑を拡大したもの

更に、夏至には諏訪大社の方角から日が昇り、伊弉諾神宮を通過して出雲大社の方角に日が沈むことや、冬至には熊野那智大社から日が昇り、高千穂神社天岩戸神社に日が沈むことにも触れています。

伊弉諾神宮(Photo by ISSA)

ただ、下図のように実際に地図上に描いてみると、熊野那智大社については、冬至の日の出の方角にあるレイラインから、少しばかり南の方にズレていることが分かります。

陽の道しるべ(Created by ISSA)

代わりに、その方角のレイライン上には日本最古の神社とも言われる花窟神社(はなのいわや じんじゃ)(注2) がありました。
 
(注2) この神社は、神々の母である伊弉冉尊が火神・軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵で、人々が「花を供えて祀った岩屋があった場所」とされる(2004年、世界遺産に登録) 

花窟神社(Created by ISSA)

何故、熊野那智大社の位置だけズレているのかは不明ですが、いずれにせよ、国生みの二神をお祀りする伊弉諾神宮を中心としたレイライン上に、これだけの社格の高い神社が並んでいることは、単なる偶然とは考えにくいですね。

2 近畿の五芒星
レイラインに関するもうひとつのミステリーは、平城京などの古都を取り囲む巨大な五芒星 (注3) です。
 
(注3) 五芒星(Pentagram)とは、5つの角を持つ星型多角形で、一筆書きが可能な長さの等しい5本の線分で構成された、数学的にも面白い図形である

近畿の五芒星(Created by ISSA)
①-②のラインは、陽の道しるべとも一致する

① 伊弉諾神宮
先述のとおり、国生みをした伊弉諾尊伊弉冉尊の二神をお祀りする神社です。建立は神代の時代とされていますが、少なくとも西暦400年頃までには存在していたようです。
 
② 伊勢神宮・内宮
その国生みをした伊弉諾尊と伊弉冉尊の子で、太陽神である天照大御神と、三種の神器のひとつである八咫鏡を祀りする神社です。倭姫命(やまとひめのみこと)によって建立され、日本武尊の東征時に授けた天叢雲剣/草薙剣も一時期、奉安されていました。
 
③ 熊野本宮大社
その天照大御神の弟で、前編でご紹介した八岐大蛇を退治し天叢雲剣/草薙剣を手に入れた須佐之男命や、天照大御神の使いである八咫烏をお祀りする神社です。建立は紀元前30年頃とされています。
 
④ 伊吹山・山頂
その天叢雲剣/草薙剣を、妃である宮簀媛命(みやずひめのみこと)に預けたまま荒ぶる神の征伐に向かった日本武尊が、山神様の大白猪の怒りを買って痛手を負ったとされる伝承の地です。西暦113年頃の話です。
 
⑤ 元伊勢・内宮皇大神社
その日本武尊に天叢雲剣/草薙剣を授けた叔母の倭姫命が、伊勢神宮を創建するまでの間、天照大御神の御神体である八咫鏡を一時的にお祀りしたという伝承を持つ神社です。
 
伊弉諾尊伊弉冉尊、天照大御神、須佐之男命、日本武尊など日本創世期の錚々たる神々と、天叢雲剣/草薙剣八咫鏡八咫烏ゆかりの地が取り囲む五芒星の中で、橿原宮、神武天皇陵、飛鳥京、藤原京、平城京、平安京などの極めて重要な史跡が守られているという訳です。
 
これは本当に凄いことですね。

上段:伊勢神宮・外宮
下段:伊勢神宮・内宮
(Photo by ISSA)

3 陰陽説と五行説
この五芒星という考え方の背景には、陰陽五行説があります。
 
(1) 陰陽説
中国の春秋戦国時代ごろ、万物の働きを陰と陽によって説明する陰陽説が発生しました。【下図㋐】

(2) 五行説  
一方、五芒星の起源は、世界最古の文明である紀元前3000年頃の古代メソポタミア文明と言われています。
 
インドに伝わると、五大元素(地・水・火・風・空)の思想と絡み、中国に至ると五行説(木・火・土・金・水)へと変化しました。【下図㋑】
 
志摩地方の海女は、安倍晴明(あべのせいめい)(注4) に由来する星形の印(セーマン)と、蘆屋道満(あしやどうまん)(注5) に由来する格子状の印(ドーマン)から成るセーマンドーマンと呼ばれる魔除けを身に着ける風習があるそうです。【下図㋒】
 
(注4) 安倍晴明(921年 - 1005年)は、平安時代の陰陽師(おんみょうじ)
(注5) 蘆屋道満(生没年不詳)は、平安時代の非官人の陰陽師で、道摩法師とも呼ばれる

ちなみに、イギリスの秘密結社フリーメイソンの付属組織として1873年に承認されたイースタン・スター騎士団(1850年創設)も、紋章として「FATAL STAR」(注6) と呼ばれる五芒星を使用しています。【下図㋓】

陰陽と五芒星あれこれ(Created by ISSA)

(注6) "Fairest Among Thousands, Altogether Lovely" の頭文字で、五芒星はそれぞれ教義、忠誠、忍耐などの意味を持つ 
 
このように五芒星は、古今東西、魔除けや資質などを表すシンボリックな描写として扱われてきた経緯がありそうです。
 
(3) 陰陽五行説
そして、陰陽説と五行説が組み合わさった陰陽五行説が、飛鳥時代に仏教や暦法とともに日本に伝わり、後に陰陽道へと日本独自の発展を遂げました。
 
7世紀初頭、大陸から来日した僧侶が陰陽五行説を講じると、その習得が遣隋使の目的のひとつにもなりました。
 
次第に日本の国政にも影響を及ぼすようになり、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても、陰陽五行説の思想が影響したようです。
 
更に、7世紀後半頃から陰陽師が現れると、彼らは政(まつりごと)に携わる陰陽寮という官僚機構に組み込まれました。

陰陽師と陰陽五行説のイメージ

3 レイラインの謎に迫る
したがって、近畿地方の古都については「陰陽師が五芒星の中に都を造るように働きかけた」と考えられますが、一番の謎は「陰陽師より遥か昔、古代の人々が、一体、どうやって五芒星の意味を知り、直径180kmの広範な地域に神社などを正確に配列できたのか」ということです。
 
この謎に迫るカギのひとつとして、先述したメソポタミア文明の存在が挙げられます。
 
五芒星の起源は、世界最古の紀元前3000年頃のメソポタミア文明に遡り、ユーラシア大陸を東へと伝わり、最終的に日本で陰陽道の創始に至ったのは7世紀頃のことだとお話しました。
 
しかし、五芒星を成す神社は遅くとも5世紀までには造られているので、このルートでの伝来では時系列的につじつまが合いません。
 
そこで着目したいのが、メソポタミア文明の時代に、国を追われて海洋の民となったシュメール人(注7) の存在です。
 
(注7) シュメール人は60進法を発明したことで有名で、建築、天文、測量などでも優れた技術を有してた
 
山口県北西部・角島にある「つのしま自然館」には、今から約4,000年以上も昔、シュメール人がこの地に渡来した証とされるペトログラフ (注8) が展示されています。

つのしま自然館のペトログラフ(Photo by ISSA)

(注8) ペトロ(Petro:岩)グラフ(Graph:文字・文様)とは、文字を持たなかった先史時代に、岩などに刻まれた文字・文様・絵画のことをいう
 
こうしたペトログラフは、山口のほか、福岡、熊本、広島、滋賀、岐阜、静岡、青森、北海道など、至る所で発見されています。
 
これらは、太古の日本人が海路で渡来したシュメール人を通じて五芒星の考え方や高度な測量技術に接し、「近畿の五芒星」や「陽の道しるべ」を作り上げることも不可能ではなかったことを示唆しています。

五芒星の伝来ルート(Created by ISSA)

真相は誰にも分かりませんが、いずれにせよ、心惹かれる歴史ミステリーですね。ひとたび日本創生の神秘に取りつかれると、思索の旅は尽きることがありません。
 
まるで、古代人によって複雑に仕組まれた、私たち未来人に向けた壮大なメッセージであるかのようです。
 
4 レイラインから日本史を考える
このようなレイラインというものを踏まえて歴史を考えると、これまでの日本史とは、ひと味違ったテイストになります。
 
今から約4,000年前、海洋の民シュメール人によって五芒星の考え方や測量の技術が日本に伝わった。
 
約2,700年前、太陽(天照大御神)の光を背に受けて、紀伊半島の東から上陸した神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)。天照大御神の使いである八咫烏が、将来、五芒星の中心地になるであろうヤマトの地へと彼を導いた。
 
神倭伊波礼毘古命は、その地で初代・神武天皇として即位し、天叢雲剣/草薙剣などの三種の神器もこの地に奉安した。その後、五芒星を成す神社の建立とともに、ヤマト王権/大和朝廷も順調に発展を遂げていった。

6世紀から8世紀にかけて、日本は大国であった中国を念頭に、五芒星の中で急速に「皇徳」を基盤とする独立国家のカタチを整えていった
 
第33代・推古天皇は聖徳太子を摂政とし、604年に「和を以って貴しとなす」から始まり、国や人の在り方を説いた道徳的規範に基づく「十七条の憲法」を制定、初めて法律に基づいた律令国家を創生。
 
背景には、6世紀までに伝来した仏教があった。当時は蕃神(異国の神)であった仏の教えを積極的に取り入れたことで、その後の神仏習合や日本人の宗教的価値観の下地を作った。
 
また、推古天皇は、607年の遣隋使を通じて隋の皇帝・煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と記した国書を渡し、冊封から脱却
 
翌608年の国書では「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と記し、初めて「天皇」という言葉を使った。
 
第36代・孝徳天皇は、645年に日本初の元号(大化元年)を定め、第40代・天武天皇は日本創世記である古事記・日本書紀を編纂させ、第41代・持統天皇が中国の都を模範とした藤原宮を完成させた。
 
第42代・文武天皇は、702年の遣唐使を通じて、中国の王朝に「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と伝え、国名を「日本」に定めた
 
そして、710年に、第43代・元明天皇は、五芒星のど真ん中に平城京を誕生させた。

しかし、794年に、五芒星のはずれの方に都が遷される(平安京に遷都される)と、次第に「皇徳」が蔑ろにされ、やがて摂政関白が意のままに天皇を動かすようになり、側近たちの覇権争いが拡大。
 
1185年、平家が幼子の安徳天皇を連れて三種の神器を持ち出し、二位尼とともに壇ノ浦に沈む。源氏が勝利して鎌倉幕府が打ち立てると、天皇と都は衰退。その後、武士の時代が訪れ、長らく戦乱の世が続いた。
 
鎌倉幕府から約700年後の江戸末期、ようやく大政奉還となったが、天皇や三種の神器が五芒星の外(江戸・東京)にあったが故に日本は戦争に突入し、やがて大敗を喫することになった…。(注9)
 
(注9) 第2次世界大戦では、米軍が日本の歴史建造物への空襲を避けたこともあるが、他の地域と比べて五芒星の中の空襲被害は少ないという事実は無視できない


5 日本の心髄とは何か

私が考える「日本の心髄」(The genius of Japan)は、次の5つです。

日本の心髄(Created by ISSA)

① 正しい歴史観
日本の歴史教育では、情操教育という側面が蔑ろにされていると感じます。唯物論的に語る日本史もいいですが、こうした神話やファンタジーを織り交ぜながら語る日本史の方が断然面白いし、人の心をより優しく豊かに育むことができると思います(西洋でも、モーセの十戒やノアの箱舟など、神話とともに語られることが多い)。
 
② 宗教的価値観
先人たちは、蕃神を排斥せず、神仏習合という英知によって日本人の心に仏の教えを灯しました。「もったいない」、「ありがたい」、「おかげさま」など、難しい教義がなくても、仏の教えが人々の行動規範として自然に根付いている。これは、世界的にみてとても凄いことなのです。
 
③ 和の精神
八百万の神々を生み出した多様性に富む日本人を、調和的に繋ぎ留めてきたのが和の精神でした。何かと多様性がもてはやされる今、それが他人の迷惑を顧みない身勝手なものとならないよう、和の精神で他者を思い遣る心が、これまで以上に必要なのだろうと思います。
 
④ 三種の神器
三種の神器は、天孫降臨とともに神々の国からこの世界に降ろされ、歴代天皇の間で受け継がれてきたレガリア。神の物がこの世界で形あるものに具現化した唯一の「神器」である一方、敢えてそれを見せないことが皇徳を高め、その皇徳に触れることで、民は公徳心を育んで来たのです。
 
⑤ 万世一系の天皇
天皇は、今上天皇に至るまで一度たりとも途切れることなく文化と血統を継承してきた、いわば日本という国の屋台骨。諸外国の王侯貴族とは真逆で、質素倹約の御手本として日本の中枢に君臨して来ました。日本神話に始まり、天皇とともに歩んできた日本の歴史・文化は、民の公徳心を繋ぎ留めるこの国の宝だと思います。
 
これらの心髄が分断され、崩壊するとき、日本という奇跡の国は終焉を迎えることになるのでしょう。

幣立神宮(Photo by ISSA)

 
おわりに ~ 私が守りたいもの
私には二つの「守りたいもの」があります。
 
一つ目は、国民の生命・財産を「外敵から守る」こと。
 
国際情勢が急激に不安定化する中、憲法や防衛の在り方については抜本的に「変えていかなければならない」と考えます。
 
二つ目は、これら日本の心髄を「変化から守る」こと。
 
輸送手段とインターネットの発達により、多種多様な人々や考え方が洪水のように押し寄せる中、どんなに価値観が多様化しようとも、これら日本の心髄だけは「変えてはならない」と思います。
 
激変する国際情勢と、湯水のように押し寄せる情報過多の時代にあって、何を変える必要があって、何を変えてはいけないのか。
 
今ほど、国民一人一人の「情報リテラシー」を求められている時代はないのではないかと、そう思います。