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東洋一と謳われた軍港・呉

前回の江田島に続いて、今回は、その対岸にある呉のご紹介です。
 
呉の概要
瀬戸内に面した広島県呉市は昔から天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしたといわれています。
 
明治以降は、旧海軍をはじめ、現在の海上自衛隊の主力部隊や海上保安大学校などが所在し、映画「この世界の片隅に」や「男たちの大和」、「海猿」などの舞台となりました。

映画「この世界の片隅に」

あわせて鉄鋼や造船などの工業部門も発達しており、2005年までの市町村合併で人口25万人規模の市になっています(1940年代には、一時的に人口が40万人を超えたことも)。
 
呉の歴史
1870年代初頭、明治政府は近代国家建設に向けて富国強兵をスローガンに掲げ、その一翼を担ったのが海軍でした。
 
明治政府は、迫りくる欧米列強と対等に渡り合うために軍艦の配備を急ぐとともに、外敵の侵入を拒み、利便性や安全性も兼ね備えた軍港として横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4か所(注1) を選定します。
 
そして、1886年に第二海軍区鎮守府(注2) が呉に開庁されました。
 
(注1) 2016年、「日本近代化の躍動を体感できるまち」として日本遺産に認定された
 
(注2) 鎮守府は、各海軍区の防備に加えて港湾、造船所、倉庫、病院、ライフライン等、多くの施設の運営・監督を担ってきた
 
下図のように、現在の海上自衛隊の主な活動拠点や区割りは、概ね旧海軍時代のもの踏襲しています。

左:大和ミュージアム・ホームページより
右:防衛省・海上自衛隊ホームページより

こうした警備体制確立の背景には、1853年のペリー艦隊(Black Ships)をはじめとする欧米列強の来航と、不平等条約や植民地化への警戒感があったといえます。
 
東洋一の軍港へ
先ず、富国強兵の先鋒となったのは横須賀でした。
 
ヴェルニーなどの外国人技師によって横須賀に製鉄や造船をはじめ、赤レンガ、灯台、数学、治水など様々な知識・技術がもたらされ、その知識・技術が、呉、佐世保、そして舞鶴へと受け継がれていったのです。

1903年になると、呉にも軍艦の建造や修理を担う海軍工廠が創設されました。
 
そして、呉はいつしか「東洋一の軍港」と称されるまでに成長し、戦艦⻑⾨や空母⾚城等、数々の大型艦を輩出、1937年には史上最大の戦艦「大和」の建造に着工します。
 
何もないところから、僅か30余年足らずで戦艦「大和」の建造に至ったことは、とても凄いことなのです。

しかし、この世界有数の建艦技術は、連合軍による空襲の標的となります。
 
大戦末期の1945年夏、連日にわたりグアム、サイパン、テニアン方面からB-29が多数飛来し、呉は焦土と化して軍港としての機能を失いました。
 
ちなみに、以前、ご紹介した橋本艦長の潜水艦「伊58潜」も呉を母港としていました。

現在、呉は海上輸送網の拠点となる重要港湾に指定され、また、多くの護衛艦や潜水艦も所在する海上防衛力の拠点にもなっており、一角には現代の鎮守府ともいうべき呉地方総監部が設置されています。
 
呉地方総監部庁舎(旧呉鎮守府庁舎)
この呉地方総監部は、1907年に再建された(注3) 旧呉鎮守府の庁舎を使用しています。
 
外壁はイギリス式の積み方で、レンガと御影石で造られており、2階には柱頭に桜を彫刻した石柱があるなど、美しい仕上がりと重厚なデザインがうかがわれます(毎週日曜日に一般公開されています)。
 
(注3) 1890年に建造された初代の庁舎は、1905年の芸予地震で半壊

旧呉鎮守府庁舎
(Photo by ISSA)

なお、前回ご紹介した江田島の旧海軍兵学校に用いられた赤レンガはイギリス産ですが、呉鎮守府庁舎の赤レンガは国産のものです。
 
入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)

こちらは、1905年建築の木造平屋建(注4) で、表に洋館に奥に和館がある珍しい造りになっています。
 
当初は、軍政会議所兼水交社として使われていたようですが、1892年からは呉鎮守府司令長官官舎として使用されました。
 
前回ご紹介した旧海軍兵学校と同様に、ここもNHKドラマ「坂の上の雲」のロケ地として使用されました。
 
(注4) 1889年に建造された当初の建物は、1905年の芸予地震で半壊

左上・右上:旧呉鎮守府司令長官官舎
  右下:東郷平八郎の離れ座敷
(Photo by ISSA)

敷地内には、東郷平八郎が、1890年から約1年8か月の間、呉鎮守府第2参謀長として在任していた頃に住んでいた離れ座敷があります(呉市宮原から、この場所に移設)。
 
アレイからすこじま(旧呉海軍工廠本部前)
横須賀のヴェルニー公園と同様に、潜水艦を間近で見ることができる公園で、周囲には呉海軍工廠時代のレンガ造りの建造物が並んでいます。

 上:潜水艦がずらりと並んだ桟橋
左下:呉海軍工廠時代のレンガ造り
右下:正岡子規の石碑      
(Photo by ISSA)

遊歩道の傍らには、秋山真之の同郷の友人でもあった正岡子規の石碑があり、こう刻まれています。
 
  従軍する人を送る 
  陽炎(かげろう)に
  心許すな 草枕
 
子規は、以前ご紹介した国木田独歩のように日清戦争に従軍していますが、戦地に赴く将兵に「戦場では努々油断することのなかれ」と戒めの言葉を送っていたようです。
 
海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)
街中に潜水艦(注5) が丸ごとドーンと展示されているので、初めて訪れた方は驚かれるようですが、ここは海上自衛隊の広報ブースになっています(入館料は無料)。
 
(注5) 2004年に除籍となった潜水艦「あきしお」(SS-579)の船体を使用
 
館内には、海上自衛隊の歴史や装備品などが展示されており、順路に従って進んでいけば、やがて潜水艦の内部に辿り着きます(ただし、見学できるのは発令所周辺部のみ)。

てつのくじら館
(Photo by ISSA)

艦船めぐり
呉湾をめぐるクルージング・ツアーです。修理中の商船や海上自衛隊の護衛艦・潜水艦などを間近に見ることができます。
 
ガイドさんによる説明がなされ、開放感のあるオープン・デッキがお勧めです。

クルーズ船から護衛艦を見学
(Photo by ISSA)

右上の写真は、海自最大級の護衛艦「いずも」型の2番艦「かが」で、両艦は近く、ステルス戦闘機F-35Bを搭載した空母として運用する計画です。
 
この護衛艦「かが」(長さ248m)が入港していれば、戦艦「大和」(長さ263m)が如何に巨大な戦艦であったかが実感できます。
 
ちなみに、横須賀にも「YOKOSUKA軍港めぐり」というクルージング・ツアーがあり、米海軍の空母や巡洋艦などを間近に見ることができます。
 
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)
明治以降の呉の歴史と、その近代化の礎となった鉄鋼や造船をはじめとする知識・技術を紹介しています。
 
館内には、実物の10分の1スケールの戦艦「大和」が展示され、大型資料展示室の零式艦上戦闘機や特殊潜行艇「海龍」などが展示されています。

大和ミュージアム
(Photo by ISSA)

歴史の見える丘
この丘からは、先述の旧呉鎮守府庁舎や、戦艦「大和」を建造したドック(現・ジャパン・マリンユナイテッド(JMU))の上屋を眺めることができます。

歴史の見える丘から「大和」建造ドックを望む
(Photo by ISSA)

呉海軍工廠は、連合軍による空襲で破壊されましたが、その造船・造修技術は JMU に受け継がれています。
 
れんがどおり商店街
居酒屋さんで食べるお好み焼きが、超絶ウマイと思います😋 海軍さんの珈琲本館には、色んな種類のコーヒーがあり、見ているだけでも楽しいです。

れんがどおり商店街
(Photo by ISSA)

さて、海軍といえばカレーですが、呉は肉じゃが発祥の地と言われています。という訳で、街の洋食屋さんで、海軍カレーと肉じゃがをいただきました✨

田舎洋食いせ屋
(Photo by ISSA)

海軍カレーはシンプルで優しい味わいで、ほど良く煮込まれた肉じゃがもマイルドで、大変、美味しかったです😋
 
店内には、以前、ご紹介した高森直史氏による呉海軍グルメ認定証が展示されていました(写真右下)。

音戸の瀬戸
前回、ご紹介した音戸の瀬戸と倉橋島、こちらも呉市の一部です。

さて、締めの言葉はこちら。

山本五十六の格言

人間の本質というものは、昔も今も変わらないのかもしれませんね。見返りが期待できなくても、自発的に動ける人間でありたいものです。

おわりに
また、終戦の暑い夏がきました。
 
あの戦いの真相を探求するとともに、尊い犠牲に思いを致し、二度とこの国に戦災が訪れないことを祈り続けたいと思います🌱
 
他方で、国際社会の厳しい現状に鑑みれば、思考停止に陥ると、かえってこの国の行く末を危うくするという危惧の念もあります。
 
日本近海は、新たなる黒船("Chinese" Black Ships)が多数徘徊し、島しょ部や海洋権益を脅かす危険な海へと様変わりしました。
 
こうした対話の通じない周辺国の野心的な試みを挫くため、日本は再び海軍力を中心とした現代版「富国強兵」が必要な時期に差し掛かっているのではないでしょうか。