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「厳しさ」ってスポーツに必要ですか?

こんにちは。
いきなりですが、スポーツや部活動で「厳しい練習」というとどんなことを思い浮かべますか?
・ひたすら走り込み
・コーチや先生、先輩に怒鳴られる
・とにかく大声を出さされる
・朝から晩まで休まず練習
・もはや軍隊か何か
みたいなことを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
昔ながらの「鬼コーチ」や、「部活動の強豪校」といえば、だいたいこんなイメージだと思います。(僕の偏見かもしれませんが、、、)

現在は体罰やハラスメントが問題視されるようになり、指導者の振る舞い方やインテグリティなどの普及・改善が図られていますが、僕は実際の指導現場では昔から「厳しい」練習環境の本質はそこまで変わっていないと感じます。
そこで今回は、なぜ「厳しい」環境が当たり前になっているのか、本当に「厳しい」練習が必要なのかについて考察していきます。

日本の歴史・文化的背景

現状を考える前に、日本でどのような考え方が醸成されたきたかを考えていきます。
大昔から日本では主に、神道仏教儒教という大きく分けると3つの教えがなされ、現代に至るまでにそれらが合併されるようになっていきました。
とくに神道と仏教が結びつくことを、神仏習合と言います。
神道、仏教、儒教の教えが結びついていくことが、今日の日本での思想が形成された要因の一つだと僕は考えます。

仏教は6世紀ごろに日本に伝わり、瞬く間に日本中に教えが広まっていきました。
もとは、鎮護国家というように、国を守るための政策やよりどころとして受容された仏教ですが、次第に貴族や民衆など、個人の心のよりどころとして広まっていきます。
仏教はさまざまな宗派に分かれますが、仏教といえば厳しい修行ということを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
実際に、密教による三密の修行や加持祈祷、禅宗(曹洞宗)による只管打坐(ひたすら座禅)というものがあったり、現在でも比叡残念延暦寺では千日回峰行という、7年にもわたる各地の巡礼(徒歩)や断食、不眠などを行う修行が行われているそうです。

江戸時代に入ると、幕府の方針で儒教が広く教えられるようになりました。
江戸幕府は、武士を中心とした、士農工商といった身分制度を確立させたいという狙いがあり、儒教の教えは幕府の狙いに適していたと考えられます。
徳川家康に仕えた林羅山は、

天は尊く地は卑し、天は高く地は低し、上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑きぞ
                     (春鑑抄)

というような、身分的秩序を説きました。
ここから、目上の人を敬うことや礼儀を重んじることがより大切にされるようになりました。

そして時は流れ、1900年代以降、日本が戦争に突き進み始めたころ、日本は天皇を中心とした国家神道を国民に広め、統制を図っていきます。
思想を統制し、お国のために命を尽くすことが当たり前だという風潮が作られ、戦争に勝つためには血(苦痛)を厭わないという国民性が国によって作られた時代であると考えることもできます。

僕は決して神道や仏教、儒教を否定するわけではありませんし、それらは私たちがよりよく生きるための知恵やよりどころを与えてくれるものであると思います。
しかしながら、何百年何千年かけて作られてきた文化や風習が今も受け継がれていて、それらが現代のスポーツ指導や部活動、学校教育や私たちの生活に大きな影響をもたらしていることは間違いありません。

以上から、「厳しい」修行(練習)が身分的秩序(先生と生徒や先輩後輩の関係など)の中で実施され、それが戦争による国家的危機を契機によってより体系化されていったのではないかと僕は考えます。
(あくまで僕の仮説です。何度も言いますが宗教や歴史を否定するのではありません。)

現代における「厳しい」環境の用いられ方

前節で、「厳しい」環境がどう作られてきたのかを考察しましたが、実際に現代でもなぜこのような環境や文化が続いているかについて考えていきます。

僕は、
・苦行=成長という考え方ができてしまったから。
・指導者が偉く正しいという身分的秩序が存在するから。
・思考停止状態でもなんか頑張った気分になれるから。

の3つが大きな要因であると考えます。

○苦行=成長
これは、辛いこと(苦行)が目的化し、その苦行とそれを行うことによる成果の因果関係が結びつかなくなる状態に陥ってしまうことを指します。
仏教における修行には、来世で救われることや悟りを開いて多くの人を救うことなどが目的になり、そこから苦行によって、苦しむ人の気持ちを知ることができるなどの成果が挙げられるといった因果関係が存在します。
しかしながら、その修行の文化をスポーツに応用させようとすると、因果関係がわからなくなってしまいます。

スポーツや部活動の練習の目的は、競技力の向上や豊かなスポーツライフの実現といったものになります。
競技力という目に見えないものを向上させようとする時、指導する側からすれば走り込みやフットワークなんかは距離や時間でわかりやすく、かつほとんどの選手が苦しそうな顔を見せるのでやらせてる気になりやすいところがあります。
上手くなるには努力が必要とよく言われますが、走り込みなどの努力の形が目に見えてわかりやすいものが好んで取り入れられているというのが今の現状だと思います。

○身分的秩序
現在では各競技の連盟や協会、文部科学省などから体罰やハラスメントの防止についての通達や科学的根拠に基づいた指導方法などがインターネットなどを通じて出回っています。
にもかかわらず、未だに多くの指導者がそれらに耳を貸さない現状があると僕は感じています。

それは、指導者が偉く、選手や教えられる側は指導者に従うという身分的秩序が深く根ざしているからだと考えます。
現状指導者はチームの方針や試合に出るメンバーを決める権限を持ってることがほとんどで、事実上強い立場にあります。
そうしたシステムの中で、指導者の言うことは絶対という、ある意味神格化されているのではないかと感じます。
僕自身も高校まではコーチや先生に意見することは精神的に難しく、質問することですら少し怖かったです。

さらにこれの恐ろしいところは、その指導者一代に限らず、教え子にも指導方法などが伝染していくという点です。
強い立場にある指導者から指導を受けた人が指導者になった際、同じような指導を繰り返す可能性が高いです。
いい意味でも悪い意味でも指導者の影響力は大きいです。
ただ「厳しく」するしか知らない子たちが指導者になっていくことで、その教えしか知らない状態になり、外部からの情報がシャットアウトされてしまうのです。
そうして、体罰やハラスメントなどが当たり前に横行するような環境が出来上がってしまうのだと考えられます。

○思考停止状態
ただ「厳しく」頑張ることは、実は教える側もやる側もなのです。
労力的なことを考えれば、今ある現状を打開して、効率の良い練習方法やチームの仕組みなどを学んで取り入れるほうが実際大変です。
でも、「厳しく」した方が、なんかやった気になりやすく、効率の良さを求めて改革を起こすよりも効果のありそうに見えてきたりもします。
結果的に、量や強度をひたすらを求める「厳しい」指導が特に強豪と呼ばれるチームで広まっていったのではないかと考えます。

本当に「厳しさ」は必要か?

結論からいうと、今までの「厳しさ」はスポーツ指導において必要ないと僕は考えます。

僕のいう今までの「厳しさ」とは、
・ただ何も考えずに長時間しんどいことをやり続ける
・それを指導者が一方的に押し付ける
・罵声や暴力を用いて指導する
ということです。

でも、それでも時には「厳しさ」も必要だ、という意見もあると思います。
理由として、
・人間的な教育のため
・忍耐力や精神力を身につけるため
などが考えられます。(もっとあるかもしれませんが、、)

本当にそうでしょうか?

人間的な教育については、そもそも「厳しく」することが人間的に正しいか疑問です。
むしろ、人に価値観を無理やり押し付けたり、柔軟な考え方を養う機会を奪ったりするのではないでしょうか。

忍耐力や精神力に関しても、競技面で言えば、実際の場面を何度もシミュレーションして練習する方が効率的なのではないでしょうか。
社会に出た時の精神力や忍耐力を養うにしても、そもそも社会で耐え抜くための精神力が必要になる原因が、「厳しい」指導を当たり前にしている文化そのものという可能性も高いと言えるでしょう。

それよりもむしろ僕は「厳しさ」の代わりに「楽しさ」を提供することが指導者にとって必要だと考えます。
具体的には、
・科学的、論理的根拠に基づいて練習計画をする
・選手が求めるものを確認しながら、選手とともに環境を作る
・選手が競技に主体的に取り組むことを楽しめるようにする
ということです。

https://note.com/msds84_bsk/n/n000319982051

上記の記事でも述べましたが、内発的動機付けによって選手が主体的に取り組むことが、スポーツ・部活動の意義として大切だと考えます。
「厳しい」指導では罰の力という外発的動機付けに基づいて選手にやらせているに過ぎません。
それよりも、競技をすること、それを楽しむことを目的として選手が取り組めるような環境づくりが必要なのではないでしょうか。

さいごに、自分に何ができるか

理想論を述べてきましたが、その理想の実現のために自分自身が常に外部に目を持ち続け、学び続けなければならないと思います。
自分の言っていることが正しくない可能性も大いにあります。
自分の考えに近いものだけ学ぶのではなく、自分の考えとは異なるものもしっかり吸収した上で判断していきたいと思います。
人に教える立場を目指すためにも、いかに人に教わるか、ということを極めていきたいです。

最後まで読んでくださってありがとうございました!




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