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告白|2000字のドラマ

北校舎の化学準備室は、昼休み特有の穏やかな雰囲気に満ちている。
ぬるま湯のようにさらりとした肌ざわりの空気。
壁時計のなめらかに動く秒針だけが、この部屋に時の流れを感じさせた。

中庭を臨む窓が、緑の風景を四角い絵画のように切り取っている。対面の校舎の白壁には陽光が反射し、風に揺れる木枝のすき間から、淡い逆光となって窓枠を際立たせる。
階下から伝わってくるのは、昼下がりを楽しむ生徒たちのざわめき。
その声と、木々の枝葉のこすれる音を聞きながら、白衣姿の吉田は、たっぷりと水をたたえたフラスコをガスバーナーで熱し始める。
まっすぐな青の炎にあぶられるフラスコ。
壁面についた水滴が、ぽとりと落ちる。

吉田の慣れた手つきと、炎と、細やかに泡立つ水と。テーブルに突っ伏してそれらを眺めていた香菜が、やがてひとりごとのようにつぶやいた。
「化学の教師って、ほんとにそれでお湯沸かすんだ」
「いや」と吉田はすぐに否定する。
「いつもはそっち」
雑然と書類の積まれた机の片隅には、黒の電気ケトル。
「これはただの演出。それっぽいと思って」
「それっぽいってなに」
香菜が苦笑しながら体を起こし、頬杖をつく。「ま、分かるけど」

吉田が、サーバーにセットしたコーヒー豆の粉に、湯を注いでいく。
膨らむ粉。
白い湯気が立ち、香ばしい香りが漂い始める。
雨だれのような音と規則性をもって、コーヒーの抽出液が滴る。
何度かに分けて湯を注ぎ終えると、木目調の古い棚から取り出したコーヒーカップを3つ、テーブルに並べていく。飾り気のないシンプルな形のカップは、一様に白く無機質で、薄暗い室内で明らかな異彩を放った。
「吉田先生」
「孝宏でいいよ。誰もいないし」
「ううん、学校だし」
香菜は笑いながら、部屋をぐるりと見渡す。
壁際にはもう一つ机が配置されている。散らかった吉田の机と対照的に、几帳面に整頓された机。
「そっちの机は?」
「西宮先生。今日はお休み」
「あのおじいちゃん先生」
「知ってる?」
「うん。去年――1年のとき習ってた。活舌が悪くて、ときどき何言ってるのか分からないことがあったけど、でもいい先生」

コトリと音を立て、目の前にカップが置かれる。香菜は中をのぞき込んだ。褐色の液体がとっぷりとカップを満たしている。花のような芳香が立つ。
「何か見える?」吉田が、自分のコーヒーを注ぎながら問うた。
「何か見えるものなの?」
香菜が質問で返すと、吉田はふむ……と一考したのち、「未来の自分が見える」と真顔で冗談を言う。
「これ、このまま飲むの? その、ほら……お砂糖とか」
きょろきょろとあたりを見回した香菜に、吉田はほほえんだ。
「いま子供っぽいって笑ったでしょ」
「違う違う。いや、違わないけど。ためしに飲んでみ」
香菜はカップにおそるおそる唇を当て、ず、と小さく音を立ててすすった。すぐに目を見張る。
「……苦くない……でも苦い……? おいしい、かもしれない」
首を傾げる香菜に、吉田はもう一度ほほえみかける。
「そんなに苦くないの選んだから」
コーヒーの専門店で買った豆だと吉田は言った。
「高いやつ?」
「ほどほど。100gで500円くらい。高いのはもっと全然高い」
「これ1杯だと?」
「10gくらい使ってるから……50円。だいたい」
「ふうん」
もう一度、ずず、とコーヒーをすすった香菜は、ほうっと丸い息をつく。

扉をノックする音がした。香菜と吉田が、仲良く同時に振り向く。
扉はカラカラと乾いた音を鳴らしてゆっくりと開き、男子生徒がひとり、顔を覗かせた。不安げな表情を浮かべながらも「失礼します」と一声発し、まるで悪事を叱られに来たような足取りで部屋に入ってくる。
「どうぞ。待ってた」吉田がやさしく声をかける。「進藤くんもコーヒー飲む?」
「はい」返事を返した進藤に、吉田は着席を促す。
香菜の正面の椅子に座った進藤は、二人に挟まれ、居心地悪そうに視線をさまよわせていたが、コーヒーを差し出されると、すこしほっとしたように、湯気の立ち上るその水面にまなざしを向けた。
温かなコーヒーカップを両手でもてあそんでいた香菜は、意を決したようにカップをテーブルに置き、「あのね、進藤」と呼びかける。
「……きょうだいなの。私と、吉田先生。半分だけだけど」
「腹違いってやつだな」
窓際でコーヒーをすする吉田が、苦笑いしながら合いの手を入れる。
驚く進藤の反応をうかがいながら、香菜は続ける。
「だからその……似てて当然なんだ。自分では全然似てないと思って油断してたから、進藤に『似てる』って言われたときはけっこうびっくりしたけど……ううん、別に謝ってもらうようなことじゃなくて。周りに隠し事してるみたいで気まずいっていうか、ちょっと気持ち悪かったから。むしろ、ありがとう、的な」
「クラスのみんなにも言うのか」
「わかんない……わかんないけど、おかしいよね、こんなどうでもいいことで」
中庭で、今度はとびきり大きな歓声があがる。
「俺は、どうでもいいとは思わないけど」
進藤はそう言ってコーヒーに口をつけた。
「なにこれ、うまい」
吉田も香菜も、その言葉にそっと笑みをこぼした。

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