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古文の魅力と臨書の魅力

めちゃくちゃ久々のNote投稿・・・。

先日、『知ってる古文の知らない魅力』 (鈴木健一)という本を手に取ったとこ ろ、「はじめに」から興味深いことが書いてありました。

『徒然草』の「つれづれな るままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとな く書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」というこのなじみ深い文章は、実は全部が兼好のオリジナルではなく、兼好 の時代から遡ること約300年前に活躍した 女流歌人、和泉式部の文章が元になっているという。詳しい文章は省略するが、歌人でもあった兼好が影響を受け、和泉式部の表現を使用したらしい。

著者の鈴木健一は「先人の用いたことばを 取り込むことで自己表現が豊かになる。そ ういう考えが支配的だったからです。」「文学作品は過去の作品表現の集積によっ て成り立っている。すぐれた作品はその上 に新しい価値を付与したものだ。」としています。
私は書にも共通したものを感じています。
現在、私がシンガポールで開いている書道教室の大人の毛筆クラスでは、虞世南の「孔子廟堂碑」に取り組んでもらっています。虞世南は王羲之の影響をしっかりと受け、その筆法を吸収しつつも、自分なりの、虞世南にしか書けない個性を表しました。私たちは虞世南の臨書をしているわけですが、単に形良く書いたり、虞世南の書をそのままコピーする のではなく、そこに自分なりの感性・個性・感覚が現れた方が良い書といえるでしょう。
もちろんそれが自分勝手になっては良い書とは言えないので、どこまでが個性で、どこまでが勝手なのかの線引きは非常に言葉では表しにくいのですが、簡単にひとことで言うならば、古典への「尊敬」、もっと 言えば「畏怖」を持って臨書しているかが ポイントになってくるのでないでしょうか。
多くの書道教室では、1ヶ月ごとに毛筆課題が変わるのですが、当教室の大人の毛筆クラスでは、ある程度長い時間をかけて一つの古典に取り組んでいきます。それは、私が 、1ヶ月程度ではこの古典の良さを伝えきれないと思うからです。取り組む期間が長く、時には生徒さんが飽きを感じることもあるのではないかという心配もあるけれど、より深く古典を味わう時間だと考えていただき、粘り強く取り組んでいただければと思っています。

先人の豊かな筆法を土台とした、自分なり の表現というのはそうそうできるものでは ありませんし、私自身もまだまだ模索中。生徒さんといっしょに深めていきたいです。

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