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保育セミナー「うたげと初心」に寄せて〜溝口義朗、保育界の良心が見る乳児からの世界

11月11日、12日に開催される新しい保育セミナー「うたげと初心」。
全編、1か月の見逃し配信付き!
ライブビューイング会場もあります!!

新しい保育セミナーを企画しました。その名も「うたげと初心」。
それに寄せる形で、今考えていることのあれこれや、保育について書き記したいと思います。

4回目は、「溝口義朗、保育界の良心が見る乳児からの世界」。

溝口義朗さんは一筋縄ではいかない人物です。
その語りを聞いた方はそのぶっきらぼうな感じ、膨大な知識量、抽象度の高い言い回しに、戸惑いを覚えるかもしれません。

東京あきる野にあるウッディキッズ。一軒家に0歳から6歳までがわちゃわちゃと暮らす、その場で溝口義朗さんは保育をしています。

部屋の真ん中には薪ストーブがあり、柱にはヴァイオリンがかかっています。ウィリアムモリスの壁紙が貼られた一室にはおおきなテーブルがあり、そこで昼ごはんの支度が子どももまじって始まっています。

溝口さんは、庭先の簡易かまどに薪をくべてご飯を炊こうとしています。手にはフーコーの本。ときにはそれがドゥルーズだったり、木村敏だったり。

保育室も保育の感じも「家庭的」と言っていいかもしれませんが、ひとくちで「家庭的」では済まされないなにかが感じ取れます。
溝口義朗とウッディキッズがつくりだす「家庭的」は、情緒でつくられた空気感ではなく、論理でつくられたような骨格を感じます。

表明していることはシンプルですが、そのテーゼを支えるバックグラウンドには膨大な論理の構造を感じさせます。

自他未分だ、と溝口さんは言います。すべてはひとつ、と。
西田幾太郎を引用し、倉橋惣三に「倉橋、おまえもか」と語りかけ、とにかくブッキッシュな語り口の中に、子どもや保育に対する尽きない愛情があふれでてきます。

わたしたちは、個別ではないんだよ、すべてはひとつなんだよ、少なくともわたしたちはそこから生まれてきたんだよ。
でも、みんな自分たちがどうであったかを忘れ過ぎじゃないか。
すべてはひとつ。少なくとも、すべてはひとつ、だった。
そこから社会を、人がいかに生きるか、ともに暮らすかを考えようよ。

溝口義朗さんの言葉は、いつもそのような語りかけに満ちています。
保育をばかにするなと叫び、憲法を読めば書いてあることをなぜ踏みにじる!と吠えようとも、
溝口義朗がいつも語りかけているのは、わたしたちは「すべてはひとつ」だったじゃないか、ということです。

発生論を存在の本質規定にまで高めること。
これは三木成夫がやろうとしたことに、構造的には似ている気がします。

三木成夫が「個体発生は系統発生を繰り返す」というところから「遠」の思想へといたったように。

三木成夫は胎児の相貌から、この思想を生み出しましたが、溝口義朗は自分の思想を保育の日々から、子どもたちにまみれる日々からとってきたのです。

その意味では、保育臨床がどのように思想へといたるかの典型例とも言えます。

私たちは溝口義朗さんの声から、それが怒号であれ、ぼやきであれ、すぐには理解できないようなブッキッシュな引用であれ、保育の良心の所在を聴き取ることでしょう。

彼の思想に賛成か反対かに関わらず、溝口義朗はその思想と臨床によってたえず私たちを子どものほうへと誘います。

子どもがどういうふうに生きているか見てごらん、と。
むずかしいことはなにもない。そこにもう、すでに、すべてがある。

みなさま、ぜひ。


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