見出し画像

お茶か刀か 岡倉天心『茶の本』

岡倉天心の『茶の本』は、アメリカ・ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、1906年(明治39年)に英語で出版した書籍で、茶道の紹介だけではなく、日本の文化や美意識が説かれている。
その背景には次のような時代があった。

1868年の明治維新以降、日本は欧米に匹敵する列強になることを目指し国の近代化に努め、大陸政策を進展させ、1894(明治27)年には日清戦争、1904(明治37)年には日ロ戦争へと突き進んだ。そうした戦争の勝利の中で、日本が西欧に劣った国家ではなく、独自の文化を持った国であるという自覚と誇りが芽生え、各種の日本論が提出された。

『茶の本』もそうした日本論の一つだが、とりわけ21世紀の今、次の一節に目を止めたい。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道 ―わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術― について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

岡倉天心『茶の本』

「脱亜入欧」という表現は日本の側からのものだが、欧米列強も植民地主義を進める中で、中国大陸やロシアの東方面は日本に委ねるという判断があったものと思われる。
そうした状況を、岡倉天心は、皮肉を込めて、「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。」と言う。

血なまぐさい戦争ではなく、茶道。
その茶道とは何かが、冒頭の一節で説明されていた。

茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々(じゅんじゅん)と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

岡倉天心『茶の本』

茶道は日本独自のものではなく、中国大陸から渡来したもの。
日本ではそれを「一種の審美的宗教、すなわち茶道」にまで昇華させた。そこに日本的な文化の特色がある。

そして「お茶の文化」は日本の隅々にまで行き渡っている。

日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。われらの住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画等― 文学でさえも ―すべてその影響をこうむっている。いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。茶道の影響は貴人の優雅な閨房にも、下賤の者の住み家にも行き渡ってきた。わが田夫は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛めでるに至った。

岡倉天心『茶の本』

貴人の優雅な閨房にも、下賤の者の住み家にも」、つまり社会的な上下を問わず、お茶を飲み、お茶を楽しむ、現代の用語を使えば「民芸」が日常生活の中に入り込んでいるのも、日本文化の一つの特色だといえるだろう。

もし「お茶」か「刀」かと問われたら「お茶」と答え、「いつまでも野蛮国に甘んじよう」。
こうした岡倉天心の思想は甘いと非難されるかもしれない。しかし、戦争が各地で勃発する今こそ、心のどこかに留めておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?