日本人にはなぜ英語やフランス語の習得が難しいのか? 構文について考える
日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい。その理由は何か?
答えは単純明快。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。
この事実は当たり前のことだが、しかし、日本語との違いをあまり意識して考えることがないために、どこがわかっていないのかがはっきりと分からないことも多い。
例えば、英語の仮定法と日本語の条件設定との本質的な違いを理解しないまま、if を「もし」と結び付けるだけのことがあり、そうした場合には、大学でフランス語の条件法を学ぶ時も、英語のifで始まる文と同様にsiで始まる文が条件法の文だと思ってしまったりする。
これは一つの例だが、ここでは問題を語順に絞り、日本語とフランス語の違いがどこにあり、日本語を母語にする人間にとって、どこにフランス語習得の難しさがあるのか考えてみよう。
ちなみに、これから検討していく日本語観は、丸山真男が「歴史意識の中の"古層"」の中で説いた、「つぎつぎに/なりゆく/いきおい」という表現によって代表される時間意識に基づいている。丸山によれば、日本人の意識の根底に流れるのは、常に生成し続ける「今」に対する注視であり、それらの全体像を把握する意識は希薄である。
そうした意識が、日本語という言語にも反映しているのではないかと考えられる。
文の骨組み
構文に関して、次のような対比がしばしば示される。
(A)フランス語:主語+動詞+目的語、補語、等の要素。
(B)日本語:(主語)+様々な要素+動詞。
この図式から分かるように、フランス語では「誰(あるいは何)が何をしたのか」が最初に明示されるのに対して、日本語では、「どうしたのか」は文の最後までいかないとわからない。
実は、こうした構文のあり方は、名詞に関しても共通している。
(C)フランス語:修飾される名詞+修飾する要素(形容詞、前置詞+名詞、関係代名詞、等)
(D)日本語:修飾する要素+修飾される名詞
例えば、「昨日買った大きくて赤い花」の場合、「昨日買った」「大きくて」「赤い」ものが何であるかは、最後の「花」が出てくるまではわからない。
それに対して、フランス語では、« La fleur grande et rouge que j’ai achetée hier ». 最初に「何が話題になっているのか」が示され、その後から説明が加えられる。
(注:名詞の前に置かれる傾向のある形容詞もある。)
こうした語順の違いから何がわかるのか?
日本語では、話題の中心になるものは一連の言葉の繋がりの最後に置かれるために、あまり長い文章になると、繋がりが不明確になり、文意がわかりにくくなる可能性ある。
それに対して、フランス語では、最初に文の骨組みとなる部分が提示されるために、その後ろに次々に要素を続けていっても、構文が不明確になることはない。
日本語母語者が英語やフランス語の長い文章の構文を苦手にするのは、動詞だけではなく、名詞に関しても、語順の組み立て方のベースが正反対であることから来ている。
そのことは日本語の文章の理解の仕方と深く関係している。その点について次に見ていこう。
日本語の文の理解法
ほとんど意識しないのだが、私たちは日本語の文を理解する時、文全体の構造を捉えるのではなく、今読んでいる部分を捉え、次の部分へと進んでいく。
日本語が母語ではない人間にとっては理解が難しいと話題になったことがある、有名な例を取り上げてみよう。
それは幸田文の『流れる』の冒頭の文で、次のように始まる。
私たちはこの文を読んでそのまま理解できるし、特に問題は感じない。
しかし、英語やフランス語に訳すことを考えると、まず主語をどうするかが問題になる。
「この家に相違ない」は一つの文だが、主語がない。いきなり「違いない」と言われても、何と比較されているのかわからない。「入る」という行為にしても、誰が入るのかわからないし、「勝手口がない」のは「家」だと推測できるが、構文上の繋がりは明示されていない。
しかし、私たちはこの文を何ら問題なく理解できる。その理解の仕方は次のようなものだと考えられる。
「このうちに相違ない」の部分の意味は、この家に違いない、まさにこの家だ、と理解する。次に、「どこからはいっていいか」を読み、家に入るための入り口がわからないと理解する。次に、「勝手口がなかった」という文で、そこには勝手口がないのだと理解する。
このように、私たちは、文章に出てくる要素を前から順番に理解している。その際、主語がないとか、構文がどのようになっているかなどは考えない。
極端な言い方をすれば、日本語母語者にとって、文とは部分の連続でしかなく、文全体の構造はあまり意識しない。
主語の有無を問題にする時によく例に出される川端康成の『雪国』の冒頭の文も、同様に考えられる。
私たちは、トンネルを抜けたのが誰あるいは何なのかといったことは意識することなく、ただ、「トンなるを抜ける」という部分を読み、そのように理解する。「雪国であった」に関しても、何が雪国だったのかと主語を問うことなく、雪に覆われた風景を思い浮かべる。
繰り返すことになるが、文全体の骨格を考えるのではなく、出てきた要素を順番に理解していく。それが日本語を母語とする人間が日本語の文を理解する方向だと考えられる。
ちなみに、幸田文の文に関して、ChatGPT3.5に英語とフランス語の翻訳を依頼してみると、次のような訳が出力された
現在のAIでは、かつて外国人は理解が難しいとされた文も、それなりに分析され、理解可能な翻訳になっている。
『雪国』では、次のような出力結果が得られた。
長い文
長い文といっても、二つの種類があることに注意しよう。
(E)単文の連続
(F)数多くの修飾語が被修飾語に関係する場合
日本語の場合、修飾する言葉があまりに多くなると文意が不明になることが多い。しかし、修飾する表現が出てくる順番に理解していくことで、理解可能になることが多い。
太宰治の『人間失格』の冒頭に続く文では、2つの文の連続(E)と、多くの修飾表現の連続(F)という、二つの要素が組み合わされている。
「一様」で始まる文は、「十歳前後かと推定される頃の写真」で終わる文と、「醜く笑っている写真」で終わる文という、二つの文の連続(E)から成り立つ。
修飾表現の連続(F)という点から見ると、次のようになる。
a. 男の幼年時代、それは十歳前後。
b. その子供が大勢の女性に囲まれている。(その女性たちは姉妹か従姉妹と推定される)。
c. 池の畔にいる。
d. はかまをはいて、立っている。
e. 首をかしげている。
f. 醜く笑っている。
これだけ修飾表現が連続すると文意が不明になりがちだが、私たちは全体を把握しないでも、前から情報を得て、その場その場で理解をしていくことで、1枚の写真に何が映っているのか理解できてしまう。
その際、主語が何とか、構文がどのようになっているのかとか考えることはない。
石川淳「山櫻」の冒頭の文に関して、もし分析しようとすると大変だが、しかし、断片毎に理解していけば、理解不可能とはならない。
こうした複雑で長い文章でも理解できる力を持つ日本語母語者でも、英語やフランス語の長い文章になると理解できないことがある。
その理由は、日本語では部分の理解の積み重ねで文意をつかむことができるが、英語やフランス語では、文の理解は全体の構造の理解を前提にしていて、細部はその補足情報という関係にあるから。
マルセル・プルーストは、フランス人にとっても、長い文を書く作家として知られている。ここでは、『花咲く乙女たちのかげで』の一節(À l’ombre des jeunes filles en fleurs)を取り上げ、長さがどのように作り出されているのか見ていこう。
この一文は、太い字で示した主語+動詞で骨格を作られる3つの文から成り立っている。
Elle donnait sur / prenait jour / était meublée.
それぞれの文を検討してみよう。
A.
おばあさんの部屋は海に面していなかった(elle ne donnait pas sur la mer)。
主語(elle)と動詞(donnait)を核とした文の構造が作られ、sur (面する)の後で海(la mer)という場所が示される。
それを補足する情報として、私の部屋は直接海に面していた(comm la mienne)が加えられている。
日本語との語順の違いを確認するために、翻訳に目を通してみよう。
B.
maisの後ろにprenaitと動詞が続くが、主語は明示されていない。
こうした時、日本語を理解する時と同じように、文の構造が不明のまま読み進めてしまうと、文の理解はまったくできなくなってしまう。
動詞に対しては、必ず主語がある。動詞の活用は主語を見つけるための目印だと見なすこともできる。
ここでは、prenaitの主語は elle=祖母の部屋。
その部屋が光を取る(prendre jour)、つまり、その部屋には光が入ってくる。それが2番目の文の骨格である。
その骨格をより詳しく説明する細部が、de trois côtés différents(3つの別の側から)。
その3つが、surに導かれた3つの表現、un coin de la digue(堤防の隅), une cour (中庭)、la campagne(野原)によって、より具体的に示される。
ここで注目したいのは、動詞(prendre jour)と文章の核が最初に示され、細部がその後に続くこと。日本語と語順が違うために、細部がいくら多くなったとしても、文意が不明になることはない。
翻訳を見ると、フランス語と日本語で語順が逆転していることがよくわかる。
日本語では、もし「3つの方角」以下の部分があまりにも長くなると、主語である祖母の部屋と、動詞の明かりが入るとの関係がわかりにくくなる可能性がある。
C.
3つめの文は、日本語母母者にとっては、かなり理解が難しいのではないかと思われる。
名詞に対して数多くの修飾表現が付け加えられているために、日本語との相違が際立つからである。
まず、動詞 était meubléeに対して、主語を確定しなければ、文意を理解することはできない。この点を確認することは、文の理解にとって必要不可欠な要素になる。
つまり、elle était meubliée(祖母の部屋には家具が備え付けられていた)と最初に理解することが、この文を理解する際に最初に行うことになる。
それ以降の要素は、家具の様子を描くことにあてられる。
a. 副詞:différemment – 別な風に、異なったやり方で、(つまり、私の部屋とは別のやり方で)
b. 前置詞+名詞:avec des fauteuils ー 肘掛け椅子を使って
それらの椅子にさらに説明が加えられる。
c. 過去分詞:brodés (刺繍が施されている)。
その刺繍は、de filigranes métalliques(金属製の細い糸)と de fleurs roses(バラ色の花模様)から出来ている。
d. 関係代名詞:d’où (そこから)。
バラの花の模様を施された椅子からは、semblait émaner l’agréable et fraîche odeur(心地よく、新鮮な香りが発しているように思われた)。
さらに、その香りにも説明が付く。
e. 関係代名詞;odeur qu’on trouvait en entrant。その香りを、部屋に入っていくと見出した。
このように見てくると、meubléeに関する説明が成される際に、そこで使われた名詞に対してさらに説明がなされ、何段にも重ね合わされた相を持つ入り組んだ構成が行われていることがわかる。
そのために、文の構造を分析的に理解する読み方になじんでいない読者には、まったく理解できなくなってしまう恐れがある。
つまり、フランス語の長い文を理解するのが難しいというのは、たんに日本語と語順が違うという問題ではなく、文の理解の仕方が根本的に違うことから来る問題だといえる。
日本語では、細部を順番に理解していくことで、おおよその理解に達することができる。
それに対して、フランス語や英語では、主語と動詞の関係を踏まえた上で、常に全体の中で細部がどのように位置づけられるのかを理解していくことが必要となる。
日本語訳を見ると、そうした違いを踏まえて、フランス語の構文を保つことよりも、部分部分の理解が最終的な文の理解につながるような日本語の文に置き換えられている。
これらの日本語の文を読み、構文を考えることはないだろう。構文を意識しなくても理解できるのが日本語なのだ。
逆の視点から言えば、そうした読み方で英語やフランス語を読もうとしたら、文意をつかむことが難しい。構文だけではなく、時には複数の次元に組み上げられた言葉と言葉の関係を把握しないと、意味不明の文の中に投げ出されてしまうことにもなりかねない。
58文字で祖母の部屋を説明した一文は、フランス語の長い文を構成する様々な要素が含まれている。
この文を分析的に読むことで、日本語とは異なる読み方のコツをつかむことはできるはずである。
もう一度最初の質問と回答に戻ろう。
日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい理由は単文であり、明快でもある。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。
従って、長い文を読む時こそ、コンセプトの違いを意識した上で、分析的な読み方を練習することが必要になり、そうした訓練を繰り返すことで、英語やフランス語の長文を読解する力が付いてくる。
そのようになれば、単に外国語ができるというだけではなく、日本語とは違うコンセプトを身に付け、自分の中に二つの考え方、世界観を持つことできるようになる。
それこそが、外国語を学ぶことの、大きなメリットに他ならない。
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