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紅の豚 大人を主人公とした、大人のためのアニメ

「紅の豚」の主人公は、豚の顔をした中年のパイロット。格好良くもないし、英雄でもない。何か特別なことを成し遂げるわけでもない。

そんな作品に関して、宮崎駿監督は、「紅の豚」の演出覚書の中で、「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画であることを忘れてはならない。」と書いている。
また、「モラトリアム的要素の強い作品」という言葉を使い、大きな流れから一旦身を引き、執行猶予あるいは一時停止の状態にいる人間の状況がテーマであることを暗示する。

そのような状況設定に基づき、「紅の豚」は私たちに、宮崎監督の考える「大人」、そして「人間が個人として生きることの意義」を明かしてくれる。

どうして主人公が豚なのか?

「紅の豚」が公開された時、多くのインタヴューで、「なぜ主人公が豚なのか?」、という質問が宮崎監督に投げかけられた。
それに対して、宮崎監督は、「キャラクターが出てくるときというのは理由なんかなしに出てくる」、と答えている。
「最後にマルコは人間に戻ったのか?」、という質問に対しては、「人間に戻るということがそれほど大事なことなんでしょうか」、と答える。
こうした質問と答えのずれは、何を意味しているのだろう。

「紅の豚」が昔話や伝説であれば、主人公が豚でも誰も「なぜ?」という質問はしない。
グリム童話の「蛙の王様」であれば、魔法にかけられて蛙に変身させられた王子は、王女によって壁に投げつけられると魔法が解け、元の王子の姿に戻る。
「美女と野獣」でも、野獣は病の中で娘の愛を受け、本来の王子の姿に戻る。
二つの変身譚はどちらも、蛙と野獣が人間の姿に戻ることで、物語として完結する。

マルコ・パゴットとポルコ・ロッソ

宮崎監督は、こうした物語を十分に意識し、ポルコが最初は人間の顔を持ち、マルコ・パゴットという名前のパイロットだったというエピソードを描く。

マルコ・パゴットは第一次世界大戦で、イタリア海軍のエース・パイロットだった。そして、ホテル・アドリアーノのジーナや戦友のベルリーニたちと「飛行クラブ」を作り、冒険旅行を繰り返していた。

ある時、敵軍に襲われ、ほぼ全員が撃墜され、マルコも一面が真っ白な雲の平原に出る。そこには味方の戦闘機が群をなして流れていて、ジーナと結婚したばかりのベルリーニの飛行機もあった。
その体験の中、あるいは後で、マルコの顔が豚の顔に変わった

イタリア海軍のエース・パイロットは、今では、空賊を退治することで賞金を得る一匹オオカミ的なパイロットになり、名前もマルコ・パゴットからポルコ・ロッソ(赤い豚)へと変わっている。
外観は完全に中年のおっさん。決して格好いいパイロットではない。

しかも、彼はイタリア軍を裏切り、怪しげな賞金稼ぎをしている。
軍に戻らないかという誘いには、「ファシストになるより豚の方がましさ。」などと応え、お尋ね者として扱われることを選択する。
その意味では、外観だけではなく、中身も変化したと言える。

この二重の変身(外観と中身)を通して見えてくるのは、宮崎監督の意図が、マルコよりもポルコの方が「いい」あるいは「まし」ということ。
軍隊に所属し、国家に忠誠を尽くして戦う義務から逃れ、個人で好き勝手に空を飛ぶことを選択した男が、あえて再び元の位置に戻ることはない。
人間の顔のマルコではなく、豚のポルコのままでいい

ジーナとフィオ

ポルコの顔が豚のままでいいことの確認をしてくれるのが、ジーナとフィオ。
いかにも中年の体型をしたポルコが、どうしてジーナやフィオのような女性から愛されるのか、不思議な感じがする。
しかし、彼はもてる

ジーナは、ポルコがマルコだった時からの知り合いであり、3人の男達と結婚しながら、本当に愛していたのはたぶんマルコだった。
そして、顔が豚に変わった後からも、変わることなく、彼を思い続けている

アメリカ人のパイロット、ドナルド・カーチスから求婚された時、もし飛行艇に乗った男が庭に下りたら、「今度こそ彼を愛そうと賭をしているの。」と告げる。
次の場面で、その男が赤い飛行艇に乗って上空を優雅に飛ぶが、庭には下りない。もちろんそれはポルコ。

フィオはポルコの飛行艇を修理した時からポルコに憧れ、修理工場があるミラノからアドリア海の隠れ家のある無人島まで付いてくる。
そして、ポルコが過去の体験を語った後では、「ポルコが生きていてくれてうれしい。」と無邪気に言い、彼の頬に口づけをする。

ポルコとカーチスがフィオをかけて無意味な決闘をした後で、イタリア空軍が来襲する。それをポルコに知らせるために駆けつけたジーナは、「もう一人、女の子を不幸にする気」と言う。
彼のために不幸になりそうな女の子とは、フィオ。そして、若い頃のジーナ。

中年男の体型をし、豚の顔の男が、二人の女性に愛される。とすれば、この二人の女性は、ポルコがポルコのままでいいことを確認させてくれる存在だ。

「紅の豚」では、最後にポルコが人間の姿に戻ったのかどうか、曖昧なまま残される。
その曖昧さは、変身譚に関して観客が持つ「期待の地平」(最後は豚が人間に戻るはずという予想)に基づいて監督があえて作り出したものと考えていいだろう。
その上で、監督の意図は、ポルコの魅力を描くことにあった
とすれば、ポルコが人間の顔を取り戻し、マルコに戻る必要はない。

「紅の豚」は、あくまでも、マルコ・パゴットではなく、ポルコ・ロッソが主人公の映画なのだ。

子どもと大人

宮崎監督言うところの「中年男のためのマンガ映画」では、ポルコだではなく、すべての登場人物が「人生を刻んできたリアリティを持つこと」とされる。
それを別の言葉で言うと、みんなが「大人」であるということ。

主人公が大人であるということは、ジブリ・アニメの中で、「風立ちぬ」と並び、他の作品と決定的に違う特色となっている。

では、大人とは何だろうか?

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが主張したところによると、ヨーロッパでは中世まで、「子ども」とは「小さな大人」と見なされていた
現代では子どもと大人は見た目から違うように感じられるが、しかし、中世においては、子どもと大人の違いは身体の大きさだけであり、子どもだからといって特にわかいがる対象とはならなかった。
中世の宗教画で、幼子イエスの顔は、子どもの顔には見えず、大人の顔をしている。そのことは、当時、子どもがダウンサイズした大人のように見えていたことを証明している。

ルネサンスの時代になると、子どもに対する意識が変化し、子どもは大人になる前の存在であり、可愛いと感じられる感受性ができあがる。
子どもは大人とは違う存在であり、大人になる前の段階。そして、年齢とともに成長し、ある段階で大人の仲間入りをする。

このような考え方が定着すると同時に、子どもの「成長」という概念が出来上がった。
子どもは大人になる前の段階であり、様々な経験を通して大人へと成長していく存在、と見なされるようになったのである。

ジブリ・アニメの中の子どもの主人公達は、物語を通して、精神的に成長していく
例えば、引っ越しを嫌がり、我が儘だった千尋は、銭湯で働き、様々な試練を経ることで、豚に変わった両親を助けるところまで成長する。
「魔女の宅急便」は、親元を離れ、町で働く少女の成長の物語。
大人への階段を一段上ることが、子どもの主人公たちの物語の大きな枠組みとなっている。

それに対して、「大人」は本来、すでに成長が終わり、変化しない存在と見なされていた。
そのことは、未開社会の通過儀礼(イニシエーション)や、昔の日本の元服式を思い描くとわかりやすい。
子どもは高い塔から飛び降りるとか、割礼や抜歯といった苦痛を伴う試練を経ることで、大人として認められる。それは一回限りの儀礼であり、一度大人になれば、次の段階は考えられていなかった。
つまり、一度大人として認められれば、それで終わりだった。

そのように考えると、大人になってからもさらなる成長が求められるところに、現代社会の特色があることがわかってくる。
会社に入っても、資格取得が要求され、社会的にも精神的にも、常に向上することがプラスに評価される。
親になっても、子どもから何かしら学ぶことがあり、親として成長することがいいこととされる。

その意味で、現代は、子どもと大人の区別がわかりにくい。
大人とは何なのかわからない
大人になっても、ディズニー・ランドに行って楽しみ、子どもを主人公にしたジブリ・アニメを楽しむ。そうした大人でありたいと願ったりすることもあるだろう。

その結果、いつ大人になったのかわからないし、幾つになっても、常に成長することを目指すようになる。
子どもと同じように成長曲線を描くために努力しないといけない気分になり、精神的に休む暇がない。疲れる。

「紅の豚」は、そうした現代社会の中で、大人とはどういうことなのかを描き出し、ポルコの姿を通して大人であることの魅力を語っていく。

「紅の豚」に出てくるのは全部自分を確立した人間だけなんです。フィオも揺るぎなく自分です。劇中の出来事を通じて大人になったとか、そういうんじゃないんです。自分がやることも、意志もはっきりして、「自分は自分」なんです。

「『紅の豚』は自分への現在形の手紙だった。」『ジブリの教科書 7 紅の豚』

「紅の豚」の大人像

宮崎駿監督は「紅の豚」について、しばしば「モラトリアムの作品」という言い方をしている。
その際のモラトリアムの意味は、一時期日本で流行した心理学的な意味でのモラトリアムではない。

心理学的な意味では、アメリカの心理学者エリク・H・エリクソンによって提唱された概念。
子どもから大人になりつつある段階で、その成長過程から一旦離れ、猶予される期間あるいは状態のことを指す。
実際、ポルコはすでに中年であり、大人になる前の段階に留まっているわけではない。

宮崎監督がモラトリアムと言った時、彼の頭の中にあったのは、言葉本来の意味、つまり「支払の猶予」とか「一時停止」という意味だろう。
その猶予とは、予め決められたラインから下りて私は私という状態でいることでもあるし、バカげた行為に熱中して時間を浪費することでもある。
そして、監督は、そのモラトリアム状態にいる人間を、大人として提示する。

マルコ・パゴットからポルコ・ロッソへの変身は、ポルコがまさにモラトリアム状態にいることを示している。
マルコは、イタリアの正規軍のエース・パイロット。彼は国のためという大義のために戦っていた。それは、通常のラインに乗り、昇進し、英雄として崇められるコースだったといえる。
そのマルコが死に直面するという体験を経て、そのラインからはずれ、指名手配される悪党、しがない賞金稼ぎになる。
体制の側から見れば、身をやつすことであり、はずれ者状態=モラトリアム状態にいる。

級友のフェラーリン少佐とポルコは映画館で、こんな会話を交わす。

「なあマルコ、 空軍に戻れよ。今なら俺達の力で何とかする。」
「ファシストになるより豚の方がマシさ。」
「冒険飛行家の時代は終わったんだ。国家とか民族とか、くだらないスポンサーをしょって、飛ぶしかないんだよ。」
「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ。飛んだところで豚は豚だぜ。」

豚はモラトリアムの証であり、彼は戻れたとしても、国家とか民族といった大義に従わない決意をここで明らかにしている。

その時にポルコは、失ったエースという称号よりも、戦争という大義の下で殺人をしないという決意よりも、さらに大きな喜びを見つけていることがわかる。
それは、ただ単に、深紅の愛機に乗って、空を自由に飛び回る喜び
その無目的な行為は、遊びでしかなく、バカなことと見なされる。
ポルコは、そうしたバカなことに熱中する。

ジーナがポルコを愛するのも、彼がバカっぽい男だからに他ならない。
そのことは、ポルコ本人にではなく、ジーナに求愛するアメリカ人パイロット、カーチスに向けられた言葉から理解できる。
カーチスは、ジーナに結婚を迫る言葉として、必ず大統領夫人にしてみせると言う。それに対して、ジーナは、こう答える。

「私、あなたのそういうバカっぽいところ好き。」

カーチスはポルコの敵役。ジーナだけではなく、フィオにまで結婚を申し込み、ポルコと決闘をする。
しかし、憎めない。
それは、彼もポルコと同じように、バカなことに熱中するパーソナリティを持っているからに他ならない。

モラトリアム=執行猶予は、ポルコの愛機を修理するピッコロ社の女性たちによっても示される。
彼女たちは、何の疑問もなく戦闘機を修理し、ある意味では戦争に参加している。その際、自分たちの行為の善悪について判断し、行動を選択するということはしない。

その意味では、ポルコとは正反対だ。
しかし、別の視点から見ると、判断停止=モラトリアム状態にいるということにもなる。そのことは、工場長の言葉によって示される。
彼は食事のテーブルで、「女の手を借りて戦闘艇を作る。罪深き私どもを お許しください。」と言った後、陽気にこう続ける。

「さあ モリモリ食べて、バリバリ働こう!」

この言葉から、働くことだけが問題であり、善悪の判断は一時停止されていることがわかる。

モラトリアムのもう一つの側面、一つの状況の中でのあるべき態度からはずれることは、大人だけではなく、子ども達によっても示される。

「紅の豚」は、空賊のマンマユート団が客船を襲い、15人の少女達を誘拐するところから始まる。
この冒頭の誘拐犯たちと誘拐された女の子達の言葉のやり取りは、その状況から完全に逸脱している。

マンマユート団は海賊行為を働きながら、一人が少女たち全員を誘拐するのかと問いかけると、ボスは「仲間外れを作っちゃ かわいそうだ。」と応えたりする。
こうした場違いな言葉は、本来あるべきラインからはずれた言葉だ。

少女達の方でも、全く恐れることなく、「あなた達 悪人さん? あたし達 人質ね」等と楽しそうに話す。
骸骨のマークを見ても、「ガイコツ! 上手だね。」と嬉しそうで、怯える様子はない。
さらに、ポルコに助けられた後でも、大騒ぎをして、ポルコに「危ない、プロペラに近寄っちゃダメ。なに おしっこ? その辺でしなさい!」と言わせたりする。
救出されたときのあるべき姿からはかけ離れた行動と言葉が、このように冒頭のシーンを楽しげに描き出している。

「紅の豚」が提示するのは、決まった型からはずれる行動を取ることができ、戦争という大義を背負わず空を飛ぶ自由が、何にもまして陽気で楽しいと思える人間が「大人」であるということ。
義務として何かをすることはせず、自分の行動は自分の意志で決め、何をしたいかもはっきりしている。
私は私なのだという意識を明確に持ち、個人の価値を国家や会社よりも上に置く。

そうした「大人」であれば、他者から見てどんなに馬鹿馬鹿しいことでも夢中になる。何よりそれが楽しいからだ。
その意味では、物語の冒頭で誘拐された少女たちのような遊び心と陽気な心を持っている。だからこそ、カーチスに飛行艇を攻撃されても、秘密警察から追われても、人生は最終的に楽しく、明るい。
子どもではないので、様々な苦労は成長のための試練として乗り越える必要はない。遊びとしてチャレンジするだけだ。

ポルコは飛ぶ喜びのためだけに飛行艇で空を飛び回る。意味のないことが自己目的化しても、楽しく熱中できるであれば、それでいい。
それが大人の世界だと、「紅の豚」は宣言する。

さくらんぼの実る頃

大義を捨て、個人を優先するのが大人だと主張することは、大きな組織から離れ、自分の価値観だけで生きればいいと言っているようにも聞こえる。
しかし、「紅の豚」で宮崎監督が伝えようとしたのは、決して、会社を辞め、起業することを薦めることでもないし、都会を離れて田舎暮らしをするように仕向けることでもない。

そのことは、ジブリ・アニメの中で、「紅の豚」が「おぼひでぽろぽろ」の直後に制作されたことと関係している。
高畑勲監督の「おぼひでぽろぽろ」は、都会での生活にいきずまった一人の女性が、田舎を訪れ、そこで出会った若者と結ばれる話。

その作品に対して、宮崎監督は、次のように論じた。

観終わった途端に「ああ、もうとうとう崖っぷりまできたな」っていうね。「これ以上やっちゃ駄目だ、これはもう極まった」というか(笑い)。あれは要するに「百姓の嫁になれ」って演出家が叫んじゃったわけですからね。東京の中でなにをゴタゴタ言ってるんだよっていう。でも、我々は東京にいるしかないものですから。

『風の帰る場所』

この言葉からは、宮崎監督が考える大人の生き方とは、大きな組織を捨て個人を優先しろということではないことが見えてくる。
そうではなくて、たとえ大きな組織に属していようと、都会で生きようと、個人としての自分を保ち、自然を尊重できることが、「大人」なのだ。
モラトリアムという言葉を使うのであれば、大きなラインの中に留まりながらも、その流れに流されず、「一時停止」状態の中に自分を置くこと

そのことを示すのが、「紅の豚」の挿入歌として歌われる「さくらんぼうの実る頃」だといえる。

さくらんぼ実る頃  鳥たちは浮かれて歌うよ
誰かに恋して 愛する人の腕に抱かれて
うれしさにふるえてた君は 赤く頬を染めて
いつもよりずっときれいだよ

「さくらんぼうの実る頃」

この歌は、さくらんぼが花咲く短い時間の中での淡い恋を歌ったもの。
1871年にパリで起こり、二か月で鎮圧された、民衆の反政府運動(パリ・コミューヌ)の思い出と重なり、20世紀になってもずっと歌われ続けてきた。
アニメの中では、政治的な意味合いではなく、さくらんぼうの花が咲く短い時間を連想させる。それはモラトリアムの時間なのだ。

アニメの最後に歌われる「時には昔の話を」も、同じ意味を持つ。
加藤登紀子が歌う「昔」とは、「さくらんぼ」と同じように、「モラトリアム」の時。

時には昔の話をしようか
通いなれた なじみのあの店
マロニエの並木が窓辺に見えてた
コーヒーを一杯で一日
見えない明日を むやみにさがして
誰もが希望をたくした

「時には昔の話を」

この歌も、決して過去に戻ろうと薦めているのではない。
今を生きながら、「過去」をカッコの中に入れて保ち続けようという願いが込められている。
それが宮崎流の「大人」なのだ。

では、なぜマルコよりも、ポルコなのか。
大義のために戦う目的で空を飛ぶよりも、意味はなくても楽しみとして大空を飛び回る方を、なぜ好むのか。
その意味を最も明瞭に明かしているのは、宮崎監督の「紅の豚」直前のインタヴューだろ。

当然のこととして、あらゆる「職業人」は、自分の仕事がやりがいのある仕事だったら一生懸命やるものだと思いますよ。そのときに時間が長いか短いかはあまり関係がないと思うんです。ただ会社のために、全部滅私奉公せよというのは大嫌いです。会社のためにということと、自分の「職業」について一生懸命やるのとは全然違うことだと、それははっきり分けて考えています。

『出発点 1979−1996』

そして、大西洋を初めて飛行機で横断したリンドバーグのエピソードに言及して、次のように言う。

当時のアメリカには、小さな町工場で、技師がひとりで勘で図面引いて、近所のオバさんをパートタイムで集めて飛行機を作るということがあった。まだ人間の勘とか、センスとか、経験とか、熱意が、全面的に飛行機の性能に影響を与えていた時代。それが僕は大好きなんです。

『出発点 1979−1996』

仕事をするのが個人としての人間であるという考えが活かされていれば、たとえ組織の中に留まろうと、個人個人が価値を持つ。
その時には、集団が生みだした作品にも、一人一人のセンスが反映している。
そうした価値観の中で「働く」ことは、強いられるのではなく、「遊び」と同じように楽しいことになる。

組織に属していようと、個人で働こうとどちらでもいい。都会に生きようと、田舎に生きようとどちらでもいい。「大人」であれば、どのような状況であれ、自分は自分でいられる。
その時、人は陽気で快活でいられ、人生を楽しむことができる。
世界も明るく、楽しく、美しい。

男たちはみんな陽気で快活だし、女たちは魅力にあふれ、人生を楽しんでいる。そして、世界もまた、かぎりなく明るく美しい。そういう映画を作ろうというのである。

「紅の豚」の演出覚書

美しいアドリア海を舞台にした理由は、そこにあるのだろう。
アドリア海を見れば、世界は美しいと誰もが感じる。

ポルコに代表される「大人」であることが、こうした世界を作り出すと、アニメ「紅の豚」は私たちに伝えている。

宮崎監督は、この作品以降、自画像を豚の姿で描くようになったという。ポルコは監督の分身なのだろう。

そう考えると、「紅の豚」に出てくるの飛行機が、異常とも言えるほど精密に描かれている理由もわかってくる。
そこまでする必要はないという常識を無視し、監督がただただ楽しむためだったのだろう。


サボイアS-21
カーチスR3C

「紅の豚」は、21世紀になってからも、集団の中での個人の価値とは何か、そして「大人」であることの意義を、私たちに伝え続けている。

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