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「寛容さの限界」とリベラルの終焉


 西洋文明にすっかり慣れてしまった僕たち私たちには、衝撃的な話かもしれないが、「自由で平等で博愛」な近代ヨーロッパの基本的な理念である「リベラル」的風潮は、おそらくあと少しで終焉を迎えるだろう。

 それに対して国家主義的な考え方や、あるいは右翼化した旧態依然の考え方が台頭してくるのかどうかはわからないが、少なくとも、これまでの「リベラル」は「修正リベラル主義」とでも言えるような「アップデート」が多少なりとも加えられるのは必然であるらしい。そんな風に思う。


Newsweekに載っていた次の記事は、とても興味深かった。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/11/post-97522.php

「多数の難民を受け入れたスウェーデンが思い知った寛容さの限界」

なるお話だ。


 話の内容はシンプルである、これまで多数の難民を受け入れてきたスウェーデンが、いよいよ「寛容の限界」=我慢の限界を迎えたということだ。

 これまで、スウェーデンを始めとする特に北欧の国々は、「福祉的な施策」が世界中で最も進んだ国々だとされてきた。だからこそ、欧州に押し寄せた移民たちを、できるだけ多く受け入れてきたわけだが、犯罪の増加やギャング、密輸などに悩まされているという。

 だからこそ記事冒頭のセリフが出てくるわけだ。移民に対して「スウェーデン語を学び、そして働け」と。


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 リベラルというのは、実は多種多様な表現方法を取り、時に変幻自在に変化する。それはたとえば「新自由主義」のように、「好き勝手に大いにやれ、そして自由に儲けろ」という形で現れる。「自由、平等、博愛」の自由がのびのびと現れた形である。

 あるいは、北欧社会のように「福祉国家」としても発現する。誰もが等しく守られる立場となり、教育や必要な政策を万人が受けられる政策となる。「博愛」や「平等」がのびのびと現れたというわけだ。

 変な話だが、共産主義ですら「自由・平等・博愛」を説く。ただし、かなり意図的にコントロールされた形を取ってはいるが、である。


 それゆえに「リベラル」とか「自由や平等」という表面的な言葉だけを用いると、それらは様々に「化ける」ので、結果的にまったく違った様相を表に現してしまうのだが、実は非常に重要な共通点がひとつだけあることに、多くの人は気づいていない。

 それは何か、というと、シンプルな話だ。

「リベラルとやらの実現には、かならず『金』がかかる」

ということだ。これだけはどんなリベラルであっても、かならず共通している問題点だ。

 そう!リベラルがリベラルであるためには、金がかかるのである。

 だからその「金のかかり具合をどのようにコントロールするか」が、国家や行政としてのリベラリズムのスタイルの違いとなって現れるのだ。


A) 「金がかかるのだから、せっせとまず金を中央に集めなくてはならない!」というのが、共産主義や福祉国家型のリベラルである。国家や党が集中コントロールして、金をまず集めてこよう、そして再配分することでリベラル的平等を実現しようというわけだ。

B) 「金はてめえで稼げ、そして自由にやれ」というのが、新自由主義や小さい国家運営型のリベラルである。中央が何も言わないほうが、結果的に社会は自由になる、というわけだ。


 まあ、すべての国家や政府は、このA・Bのバランスのとり方で成立しているだけなので、Aのほうに比重があるか、Bのほうに比重があるかの違いしかないことになる。

 たとえば、これからの中国は別にして、今のように制限が増える前の中国(経済発展中の中国)に住んでいた人であれば、政治や政策に文句はなかっただろう。多少中央のコントロールが強くても、庶民はどんどん儲かるものから儲かり、自由で幸せだったのだから。

 共産党が支配する伸び盛りの中国と、自由で民主な党が支配する失われた30年の日本と、どちらが幸せかと言えば、庶民感覚でいえばどっこどっこいである。つまりは、施策がどっちであろうが、あまり結果は変わらない時代があったことには間違いないのだ。

(まあ、中国の場合は今年がかなり大きな節目なので、今後についてはなんとも言えないが)


 しかし、中国で経済成長を体感するのがいいか、日本で成長停滞を体感するかがいいかは別にして、どちらも「金を持っている」から話は成り立つ。

 金がないと、どちらの国家体制でも、悲惨である。それは北朝鮮でもいいし、アフガニスタンでもいい。金がないってことは、自由があろうがなかろうがどちらでもカオスでどうしようもないという、ただそれだけのことである。


 つまりは、「自由・平等・博愛」とは金なのである。

 このことは以前にもちょこっと書いたことがある。


 さて、スウェーデンの記事でわかったことがある。それは移民がやってきて「金に換算できない(仕事をしない、マイナスが大きい)」のであれば、彼らを擁護する意味がまったくないということだ。

 だから「お引き取りください」ということになる。

 あれ?人道主義はどこへいった?という疑問も生じるが、人道も金がないとできないというオチである。


 実はヨーロッパ文明というのは「自由や平等」をギリシア以来の伝統と思っているが、「金」の話もギリシア時代からの伝統で、そもそもギリシア市民は労働を奴隷に任せていたのでリベラルな話や哲学が自由にできたのである。

 ローマ市民とて同じで、金を稼いできたのは被侵略国からの吸い上げや奴隷たちというわけである。なあんだ、最初から「自由、平等、博愛」とは

「俺達の自由、俺達の平等、俺達の博愛」

だったのである。

 だからこそ、21世紀になってもおなじ根源的問いが発生するのだ。

「移民は、俺達に当たるのか?」

「移民は、俺達になれるのか?」

「移民は、お前たちのままでもいいが、俺達の役にたつのか?」

という問いである。

 これに対する答えがNOであれば、こちらからの回答はシンプルである。

「では、お前たちはお前たちで、勝手に国を作ってやっていけ」

ということだ。


 恐ろしいことに、この「勝手にせよ」という概念は、実はもとからリベラルに含まれている。それが「自由」である。自由は時に牙を向き、「お前たちにも基本的な人権があり、国家をつくる権利があるのだから、勝手にすればいい」と言い放つことができるのは、リベラルがケツをまくった時の定番名ゼリフなのである。

 これは時には、自国民にも向けられる牙だから、気をつけておいたほうがいい。自己責任というやつだ。(大麻を吸いたきゃ吸って死ね!解禁してやる、とかもそのパターンだ)


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 さて、そろそろオチが近づいてきた。どうせならこれからのリベラルは「俺達のリベラル」であることをもはや公言したほうがいいと思う。世界共通のリベラルなのではなく、「俺達のリベラル」をすり合わせるのが世界のありようだ、という真実を表沙汰にしたほうがマシなのではないだろうか。

 日本だって「技能実習生」なんてまやかしの制度をやめてしまったほうがいい。あれは「俺達の都合のいい奴隷制度」だって、誰もがもうわかっているのだから。

 けれど「俺は自由で平等で博愛を守る人間だ」と言い続けなくては、国家が成り立たないのもわからなくはない。それを言わなくなれば、戦国時代がやってくるだけだからである。それは互いに分捕り合うことの肯定以外の何ものでもない。


 なので、リベラルの顔を取り繕うことだけはやめられない。いくらそれが限界を迎えていたとしても・・・・・・。


(おしまい)


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