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【宗教2世支援者養成講座04】宗教とは何か


 宗教2世支援者は、「全ての宗教に通じているほうが望ましい」ということは全くありません。もちろん、それぞれの宗教や、特にカルトの考え方などについては、知識として有しているに越したことはありませんが、細かな内部の情報や知識は、あくまで”よもやま話”であり、本質論ではありません。

 では、今回は、宗教の「本質」とは何なのかについて、簡単に勉強してみましょう。

 宗教の機能とは、

■ 世界の 過去・現在・未来 について語るもの

であり

■ 個人の 過去・現在・未来 について語るもの

です。そして、それを語る

■ コミュニティ

が存在するという特徴があります。


 よく、「癒やし」であるとか「安らぎ」のようなものを宗教の機能として挙げる場合もあるでしょうが、それと対比しての「恐れ」などもあるでしょう。

 しかし、そうしたものは副次的で、「コミュニティに属しているから、その人間関係に癒やされる」場合もあったりします。本来の教義とは無関係にその宗教に属している場合も多々あります。

 お寺の檀家さんとして、お葬式を依頼するというのは、その典型でしょう。教義よりもコミュニティ機能が優先されている例ですね。


 さて、この、先ほど挙げた「過去・現在・未来」は「物語」という言葉に置き換えることができます。


 人間には「物語」が必要で、必ずと言っていいほど、人は何らかの「物語」の上で生きています。「物語」を必要としている、と言ってもよいでしょう。

 そして、その「物語」は、なんらかの「コミュニティ」と連動しています。家族や親族も最小単位に近い「コミュニティ」ですし、地域や学校、あるいは同じ教団や会衆なども「コミュニティ」です。


 宗教環境下にいるということは「(天地創造などの)過去から現在の物語が与えられていて、そこからおのずと未来に向かっての物語が決められている」ということです。そして、それを補完し、実働させている「コミュニティが存在する」ということでもあります。

 ところが、宗教2世の支援をしているとわかるのですが、あるカルト宗教からある人が抜ける、目覚めるということは

『物語を失い、そして、コミュニティを失う』

ということと直結します。時には最小単位のコミュニティである「家族」をも失います。


 生きる理由付けであったり、自分が生まれてきた、存在意義である物語を失うことは、とてつもなく恐ろしいことです。なおかつ、自分が属するコミュニティを失うことは、おなじくらい恐ろしいことだと思います。


 ですから、宗教2世で、親への反発、教団や会衆への反発を抱いた人は、何らかの形で

「物語とコミュニティを失い、自分を完全に喪失する」

という体験をします。

 それを埋めるために「新しい、別の物語」を求めようとする人たちもいますし、「新しい、別のコミュニティ」を求めようともします。

 そうすると、時に少年少女は、「あまり好ましくない、非行的なコミュニティ」に向かっていったり、絡め取られることもあるようです。

 あるいは大人であっても「別の宗教を求めて、さまよい歩く」羽目になることもあるでしょう。


 ですから、ここで大事なポイントがあります。

「喪失した物語と喪失したコミュニティを、いかに健全な形で回復・補完するか」

というのが、すべての宗教2世支援の本質的テーマだ、ということです。


 いま、私達は「宗教2世支援者」というひとつの仕事をイメージしていますが、物語はともかくとして「失われたコミュニティ」の補完的位置づけとして「伴走者・支援者」であろうしたい、と決意したいものですね。

 宗教2世は、完全に宙に浮いたような、ふわふわとした状態で、ただその空間で泣いているわけですから、少なくとも私達は、ちゃんと声をかけて、「僕たちわたしたちはここにいるよ」とコミュニティの存在、伴走者の存在を伝える必要があります。

 相談者がやってくるのをただ待っている、という病院やカウンセラーのイメージとは、多少違いがあるかもしれません。

 支援者は、すべてを失っていて、漂っていますから、どこに引き寄せられるかわかりません。引き寄せられてしまった先で、搾取されたり、傷つけたれたりすることが多々あることがわかっていますから、私たちも声を上げていかないと、届かないのではないか?と考えています。


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 さて、物語とはなにか、という話に戻りましょう。

 私たちは常に物語に準拠して生きており、また物語を求めています。物語なしで、ただ会社と家の往復をしたり、ニートや引きこもりのように、永遠に物語のない空間に閉じ込められることを、極端に恐れたり、嫌がったりします。

 たとえば、どんな仕事であっても、それに意義を見出したり、家族が増えて、子や孫を育てるようなイメージも、「その家族」という物語を語り継いでいる作業に相当します。

 もっと大きな意味では「資本主義に価値がある」「自由主義がいいんだ」「共産主義こそ理想だ」といった政治的な考えやイデオロギーですら、物語の一種です。

 私たちの住む日本と、となりの国とでは、そもそも国家を通じて語られる物語がまったく異なっていることに、誰もが気づくことでしょう。

 そうした中で、「宗教」は究極の物語の一つです。天地の成り立ち、民族や人類の歴史、そして、その教義に基づいて現在と未来に何をなすべきか、を描いた物語ですから、私達は「物語の中」に囚われると、その中の登場人物として語られることになってしまいます。

 恐ろしいのは、「宗教に属してしまう」と、あるいは「カルト宗教に身を捧げてしまう」と、物語の主体があなたや私から教義や教団になってしまうのですね。

(まあ、いわばモブキャラです。主人公は神や教祖などに、取り上げられてしまうのです)

 その中では、「他人の書いた物語」、あるいは、古くからある、「自分ではないものが主体の物語」を生きさせられることになるので、「自分が主人公になるチャンス」を奪われてしまいます。

 宗教1世ですらそうなのですから、宗教2世ならなおさら、自分のものではない物語を生きることになるのです。


 さて本来、物語は、それぞれの人の「個人的なオリジナルストーリー」であるべきです。それは「学業で身を立てる」とか「努力で資格を得る」とか「愛する人に出会う」とか、いろいろな物語が「まっしろなところから、一筆ずつ書かれてゆくもの」であるのが理想です。

 そして、たいていの人は、そうした物語を生まれたときから、少しずつ書き進めるような生き方をしています。それがたとえ、幸運に満ちたものでなくても、苦難や悲しみを抱えていても、それでも自分だけの物語が進行してゆくわけですね。


 宗教2世の支援は、「物語を支援対象者の手に、戻してあげる」ことですから、何もないところに放り出された対象者が、「どこか手を掴んだり、足がかりになる」場所として支援してゆくことになるかもしれません。

 そうした役割の中で、ともすれば、「漂白の中に二人して落ち込んでしまう」なんてことは避けたいものです。

 それには、支援者自身の物語を、「完璧なものでなくても」しっかり意識しておく必要があることでしょう。

 また「これが正しい物語だ」と矯正することもよくありません。それは「宗教という物語を与える」ことと本質的に同じですから、その行為は無意味で誤りだと言っても差し支えないくらいです。

 では、具体的に「真っ白な状態のところから、物語を紡いでゆく」とは、どういう作業を意味するのでしょうか。

 伴奏者としては「周囲に何があるのか、それを気づかせる」ことだと思います。

 真っ白でぼやけた空間があり、そこに放り出された宗教2世がいるとして、社会の中で、暮らしの中で、あるいは人間関係や環境の中で、

「あなたの周りに何があるのが見えますか?」

ということをサポートしてゆくことから始めたいと思います。

 周囲に何があり、自分がどこにいるのかがわかってくれば、対象者はおのずと、自分を主人公として周囲を捉えるようになるでしょう。

 それは最初はとても不安で恐ろしいことですが、伴走者がそばにいる。その人が周囲の状況を教えたり、あるいは気づかせてくれる、という安心感から、スタートしてゆけばいいのではないか、と思います。

 ちょうど、RPGゲームの一場面を思い出してください。ある街や場所に、主人公は突然放り出されるわけですが、周囲を歩き回り、街の人や遭遇する何者かに尋ねたり、関わったりしながら、次にゆくべき場所を発見してゆくような、そういうイメージがわかりやすいでしょう。

 もちろん、勇者一人でもその作業はできるのですが、あなたという伴走者がいることで、そのパーティ全体のHP回復能力が、格段に上がる、という感じです。

 支援者は、攻撃力があまりない、回復系魔法だけが使える魔法使いのようなものかもしれません。

 攻撃力はあくまでも、対象者本人が身につけてゆくべきものだからです。


 少し長くなったので、今回はこのくらいにしておきましょう。


(つづく)









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