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【小説】神様の実験(ある侍女の記録)

村と村との間にポツンとある家には気をつけて。たいてい悪い魔女や鬼がいて、取って食われて命をおとす。昔から絵本にもそう描いてあった。自分がその旅人になるなんて思いもよらなかったが。
私はある屋敷の侍女で、博物学者の家主の言いつけで、家主の持ちものをある人物に届ける為に旅に出たのであった。
私は木箱に入ったその持ち物を背負い、革のトランクを手に下げ、あまりの重さに、旅のためにと家主が用意したスーツ仕立てのドレスとコルセットはもう既に外したい衝動に駆られていた。

しかしこの長旅で水がないのでは、魔女や鬼に会わなくても命がもたない。
仕方がない。あの家で水をもらおう。
次の村までの森の道沿いに、石造りの大きな家があった。こんな田舎道に石造りなんて珍しい。何か怪しい建物でなければ良いが…。
いや、大丈夫。水をもらい、すぐに進めばもう次の村に差し掛かるだろう。

家の扉は風化しそうなほど古い木でできた厚い扉だった。据え付けられた錆びた金具でノックすると女性が現れた。
その家の女主人はゆったりとした、たぶん異国の布でできた服で、本当に布をそのまま、しなやかな身体に纏ったようなまるでマリア様のような姿で現れた。頭はやはり異国の布で髪の毛ごと大きく巻かれており、細い首に見合わないくらいの重さが感じられた。首には、パッと晴れた日の空の色の玉石を長く連ねた首飾りをグルグルと巻きつけていた。

「旅の者かい?女性1人で、大変だね。」
扉を開けたその女主人は、田舎の農婦のような、おおらかな口調でそう言った。

「ありがとう。旅の途中なのですが、水を少しわけてもらえないでしょうか。今日のうちに次の村まで行きたいのです。」

「なるほどわかった。ちょっと中で待っていなさい。水差しを持ってくるから。」

女主人はきっぱりとした口調でそう言って、部屋の奥へ入っていった。
ここは、何というか不思議な部屋であった。
壁に貼られた何枚もの大きな地図には赤い印が何箇所も記してあり、床に散らばったたくさんの楽譜の様な紙。笛や琴のような楽器や見たこともない楽器もあちこちに散らばっているのだった。
そして、部屋の奥かもっと底の方から何か音楽のようなものが薄らと聞こえていた。
こんな場所で合唱の人たちでも集まっているのだろうか、それにしては狭すぎるし…。

部屋をぐるぐると見回していると、テーブルの向こうを何かが通っていく。猫?いや猫にしてはおおきすぎる。私の腰くらいある背丈の。子供?テーブルに近づくと丸くて灰色の頭が目に入った。羽毛で覆われた丸い頭。くちばしがあり、まるで巨大な鳥のような人型の何者かであった。頭は鳥のようだが二足歩行で、なぜか上等のウールの上着と糊でピンと整えられた白い襟のシャツを着込んで小さな竪琴を脇にぶら下げている。
「あなた…いったい…」
驚いて後ずさると、相手も気づいたようで慌てて女主人の入って行った部屋へ、赤い靴を履いた小さな足で走っていった。

人々に歌を届けに行く旅人

「ごめん、驚かせたね。しかし、あんたはあれが見えるのかい?」
水差しをもった女主人は少し困り顔で現れた。
「あれは、あれはいったいどういうものなのです?動物の変異のようなものですか?」
たぶん真っ青な顔をしていたであろう私は、そのことを聞くので精一杯だった。
「変異か。なかなか難しいことを知っているね。まあ、あれはあれだ。信じられないかもしれないが妖精のようなものだよ。それが見える人間がいるとはね…。まあいい。ちょっとこちらへ来なさい。」
女主人は厚ぼったい陶器の水差しをテーブルへ置き、代わりに長い蝋燭の刺さった燭台をもって、奥の部屋へ来るようにと言うのだった。

扉のむこうの奥の部屋はひんやりとした薄暗い部屋で人の気配は感じなかった。
きょろきょろと見回すと、壁際の大きな食器棚の影に、地下に降りていく階段があった。
「急な石段だからね、気をつけて降りてきなさい」振り向きながら女主人は言った。
浅黒くキメの美しい肌が闇の中でさらに美しく見えた。

壁も階段も石で作られたその空間は、とてもひんやりとしていて外の外気とは完全に遮断されていた。妖精…と言っていたが、あれが見つかったら大変なことになるから隠しておきたいのか、それとも更なる秘密があるのか。とにかくこんな出来事はそうそうないので、このことはしっかりと旅の手帖に記して帰ったら家主に報告しなくては…などと考えているうちに、私たちは地下へと続く階段を降り切っていた。

「少しびっくりするだろうけどね。大きい音はたてないように。とても繊細な者たちだから」
そう言って女主人は古い扉をギィイと開けた。

天井から吊るされたいくつものランプの温かな灯りの下で、先ほど見た謎のトリ人間のような生き物たちが30羽ほど直立して歌を歌っていた。小さな丸い羽毛の頭がぽこぽこと乱立しており、なんとも可愛らしい様子であった。
全員がやはり、薄手のウールの色とりどりの上着を着て、糊でピンと伸ばした美しい襟のシャツを着て、足元は全員、ツヤのある赤い革の靴で揃えていた。やはり皆、背丈は私の腰くらいの大きさだった。

「歌?歌を練習しているのですか?」
この光景に圧倒されながら私は女主人に尋ねた。
「ある理由があってね。歌を練習させている。ここで練習して上手くなった者たちは、順番にこの家から旅立って、ここから遠く離れた土地まで旅しながら歌を伝えていく。
あなたには目に見えるだろうけれど、多くの人たちには見えないさ。でもね、心にはこの妖精の歌がはっきりと伝わるんだ。」
女主人は歌うトリの柔らかな羽毛の頭をそっと撫でた。トリは心地良さそうに目を細めた。そして彼女は本棚にあった新たな楽譜をトリたちに配ってまわっている。
「あなたは音楽を聴いたことはある?」
こちらを真っ直ぐに見ながら尋ねた。
「私は日々、召使いの仕事をしているので、きちんと音楽を聞く機会はないけれど、年に数回のお祭りの日に、外から流れる音楽は聴いたことがあります。楽しくて温かい音楽。嬉しい心持ちになって、ああまた次のお祭りまで辛い仕事も頑張ろうね、と仲間の侍女たちとも話しています。」
私は、仲間と働いた懐かしい洗濯場の日差しや、石鹸の匂いが染み付いた洗い板の手触りなどを思い出していた。遠くから楽しげな音楽が聞こえてくる光景が。
「なるほど、お屋敷のお使いか何かで旅をしていると言ったところか。見てわかったと思うが、この辺りの村の様子は酷いものだろう。天災や飢饉が続いてね。家や着るものもボロボロで、もう大地に膝をついて絶望するしかない時も過ごしている。しかしね、心に歌があるということは素晴らしいことなんだ。
絶望しかなかった世界が一瞬だけ色づいて、下しか向けなかった人間が一瞬だけ前を向くことができる。たった一瞬のことだけどもね、死ぬことしか考えられなかった人間の一瞬をわずかに救うことができると、わたしは考えているんだ。私は偉い学者ではないから、確実なことは言えないが私は地道に、この歌を伝えることを続けているというわけさ。」

トリたちは、つぶらな瞳で懸命に歌を歌っていた。そして小さな赤い靴で楽しそうにリズムをとっていた。
「このトリたちは、そのために生まれた妖精?のようなものなのですか?こんなに素直に言うことを聞くなんて。あなたは一体何者なのですか?」
私は謎をそのままにしてはおけず、そう尋ねた。
「このトリたちはね、もともと歌がうまいというのもあったんだが、とにかく人間の姿や洋服にとても執着があってね、洋服と靴をあげる代わりにこの歌を伝える旅をすることを引き受けてくれたんだ。何、騙したわけではないさ。お互い気に入ってこの仕事をしているわけさ。」
トリの詳細はそう答えてくれたが、自身のことは一言も言わずじまいだった。

その後、女主人は私の水筒へ水をたっぷりと入れて渡し、玄関へと送り出してくれた。
そして自身の肩からゆるりと掛けていた異国の布でできたスカーフを私の首に巻いてくれた。
「あの妖精が見えるということは、たぶんあなたは目には見えない物や怪異に触れることが多い人間なんだろうと思うよ。大変な事に出くわすかもしれないからね、これを持っていきなさい。念と祈りを込めてあるから。」
そのスカーフは私がこれまで見てきた布の中で最も薄くてしなやかで美しい色をしていた。
「ありがとう。感謝いたします。」
私はこれ以上、彼女に聞くことはできなかった。

その古い石造りの建物を後にしながら、あの女主人の美しい横顔や、優しくて強い眼差しをゆっくりと思い出していた。
あの人がやっていることはまるで神様の実験のようだなと、そう思った。

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