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0093:自分のココロで

自分をだましちゃいけないよ

Love is over
最後に一つ 自分をだましちゃ いけないよ
(「ラブ・イズ・オーヴァー」欧陽菲菲)

これはわしが小学生の頃、母親がカーステレオで聞いていた曲なんですけど、わしは母の車の助手席に座ってこの部分を聞きながら
「自分をだます、なんてことが、できるのかなぁ?」
と、無邪気な事を考えていたのを覚えています。

ちびっこのわしには分からなかったけど、長らく大人をやっていると、自分にウソばっかりついてしまいます

心当たり・・・ありますよね?
(^~^;)

お金をかけたくないとか、面倒事をおこしたくないとか、他人に嫌われたくないとか、理由は様々ですけど、でも、なんというか、自分の「本当の気持ち」にフタをして、何も感じてないようなふりをして、日々をやり過ごしてしまおうとする・・・そういうこと、ある程度オトナをやってると、ちょいちょい経験するんじゃないかと思います。

それは確かに、社会という場所で他の人といっしょに何かをする場合、必要になる場面も多々あるでしょうし、それで円滑にものごとが進むことで、最終的に自分が得することだってある。だから、大人として必要なたしなみだというのは、間違いないんだと思います。

だけど、ね。ずっとオトナやってると、分かんなくなりませんか?

自分の「本当の気持ち」ってやつ。
(^~^;)


ココロにも個人差がある

ずっと前に書いた通り(0015)、わしらのココロには「好き嫌いゲージ」というものが備わっていて、自分の周囲にあるすべてを「好きか・否か」で自動的に分類しています。

じつは、この好き嫌いゲージの「動き方」には、人によって大きく差があります。

様々な状況で、ゲージの針が激しく【好き←→嫌い】の間を動き続ける人もいれば、同じ状況でも、あまり針が動かない人もいます。

筋力トレーニングで、同じだけトレーニングしたとしても、全員が同じだけ筋肉がつくわけではないのと、大体同じですね。ココロにも、個人差があるのです。

最近は「HSP」という言葉が広く知られるようになりました。これは「Highly Sensitive Person」の略で、とても繊細な人、というほどの意味です。

少し前までは、人は同じ刺激に対しては、同じだけの痛みや不快感を感じるものだとされていましたが、最近はそうではなく、痛みや不快感に、特に敏感な人のグループがあることが分かってきて、その人達を指す言葉として、用いられています。

イルセ・サンという人が書いた本「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」にセルフチェックがついているんですけど、わしはどうやらこのHSPに該当するようでした。興味がある方は、ぜひご一読を。
(^~^ )

ま、そういう人は特にそうなのではないかとわしは思っていますが、要するに先の「好き嫌いゲージ」がよく動く人、というのも、こういう特徴に関係があるのかもしれませんね。個人差があるということです。

なので、同じ状況を目の前にしても、その辛さに耐えられる人と、とても耐えられない人とが、いるということです。


わしのココロ、汝のココロ

だからこそなんですよ。

前回(0092)書いたような、

「自分はどうなのか」が、人によって全然違う

んです。

つまり、汝のことは、汝にしか、分からないんです。

汝にわしのことが分からないように、わしにも、汝のココロの中のことは、さっぱりわからないんです。

ほら、わしらは、望んでそういう世界に来ているんでしたね(0021)。じゃんけんするために。
d(^~゜ )

広い世界、たくさん人間がいる中で、汝のココロのなかの、好き嫌いゲージの針が今、どの位置にあるのか、それが分かるのは、汝だけなんです。

けどね・・・さっき書いたみたいに、わしらはオトナとして、それを見ないように、見ないようにして社会に溶け込むように、知らず知らずのうちに、自分を訓練してしまっています。

「自分をだまして」

生きてしまっているんですね。多かれ少なかれ。

これでうまくやってるうちはいいですけど・・・人生が辛いのであれば、そこを見直した方がいいのかもしれません。


自分のココロ、本当の姿

前回のテーマだった「自分で決める」ためには、この「自分はどうなのか」は、とても重要な指針です。

だって、自分で自分のことがわかってないのに、自分を幸せにできるわけ、ないですもんね。
(^~^ )

けどね、案外、自分のことって、わかってないんですよねわしら。

鏡には、自分の正面を映すことができるけど、背中や後ろ頭は、なかなか見えないもんです。

それに、鏡って左右逆ですもんね。自分の本当の姿を、映しているわけではないんですよ。

自分のココロのありようも、なかなか自分で完全に把握するのは、難しいもんです。

わしらには、ココロのほかにも、アタマがあるんでしたね(0007)。わしらは普段、アタマでものを考えるので、ココロがどう「在る」のかは、どうしても二の次になってしまいがちです。

だけど、やっぱり、自分のことを自分で決めようと思った時、最終的に「選べ!もう一度」(0091)をやるときに、

最後に決め手となるのは「自分のココロ」

であるべきだと、わしは思っています。

なぜなら、幸せを感じる(=人生を辛くなくする)、そのパーツは、ココロだからです。

ココロが納得していないのに、どうしてココロが「幸せを感じる」でしょう。

自分をだましても、幸せにはなれないのです。
d(^~゜ )

汝の幸せは、汝にしか、わからない。だから、汝自身で、汝自身のココロと、よく話し合いましょう。

自分の手で、もう一度選び直すために。

(・・・わしの話、信じないこと。よろしくね)

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これは、拙ブログ『人生はなぜ辛いのか、と思った時に読むブログ』からの転載です。イラストや強調で分かりやすい、本家サイトはこちら。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/
このブログの文章を初めてお読みの方は、ぜひ第1回からお読みください。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/2018/09/0001.html
今回のエントリーのページはこちら。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/2019/05/0093.html



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)