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鹿の神さまの伝言

一週間前、
とてもショッキングな場面に遭遇しました。

行きつけの憩いの場、支笏湖からの帰りの道
道路の脇で、前足を折った子鹿が
血を流して座りこんでいたのでした。

どうやら子鹿は足以外は元気そうで
クゥクゥ鳴きながら、
その時はまだ立ち上がろうとしていました。

恐らくだけど、道路に飛び出して
車に跳ねられたんだと思う。 
(北海道ではよくある話…)



雪の降る中、美しい夕焼けを見ながら
カフェでひとり
静寂な時間を過ごしていた10分前には
帰りの道でこんなに動揺することに出くわすなど
想像もしていなかった。


それは日没16時を過ぎた頃のこと。
その日は大雪予報ではなかったけれど
皮肉なことに、丁度子鹿を目撃した頃から
大粒の雪がしんしんと降り始めたのでした。

私はいてもたっても居られず
少し先の路肩に車を停めて
市役所に連絡しました。

「つかぬことをお伺いしますが、
支笏湖傍の道路に鹿が負傷して倒れています。
どうにか保護や治療することはできませんか。
せめて、森の方に移してあげることはできないのでしょうか。」

市役所の方は、少し厄介な電話を受けて
面倒そうな顔が想像できるような声で
淡々と答えた。

「野生動物ですので、こちらはそのような治療などを請け負うことは致しておりません。
死亡が確認できましたら市の方で火葬致します。」


どんな返事が返ってくるかぐらいは
内心、私だって想像していました。 
それにしても悔しい返答…

ただあのまま見過ごして
ノーリアクションのまま家に帰ることは
私にはできなかった。


その電話をした後も、
子鹿が更に車に跳ねられていないか心配になり
もう一度子鹿のいる場所までUターンした。

子鹿は少し諦めたのか、落ち着いたのか…
鳴き止んで、雪の降る中  静かに座っていた。

行き交う車やトラックが子鹿を避ける様が
まるで無感情の無機質な人間に見えて
勝手だけど、無性に寂しくなった。


極寒の外から、
私は暖かい家に帰り着いて
夫と子どもたちの顔を見たら
言葉にならない寂しさと悲しみと無力さに
思わず涙が止まりませんでした。

.

生きる界隈の違う
野生の鹿と人間の私。


私みたいな弱い人間に比べて
彼らに備えられた生死に関する覚悟たるや
それは、天と地の差だろうと思う。 

 

人間は身の回りにあることを
自分の思い通りにすることにいつも必死で
死はいつか当たり前に来るのに
それはそんなにすぐではないと思い込んで
しょうもないことに悩んだり、怒ったり
そんな毎日を過ごしている。


神さまなんて大して信じていなくても
明日は必ず来ると信じていて
不都合が起こると占いに行っては見てもらい
都合のいい未来が来ることを期待して
既に手の中にある、ささやかな幸福には
中々気づかないままのことが多い。


そして私はというと、
どこか漠然とした今後への不安や
大切な身内の癌の行く末など
ささいなことに一喜一憂して
色んな事に、淡い期待をしながら過ごしていた。


そんな矢先、
血を流して倒れて 今にも死にそうな
野生の子鹿との遭遇───────


まるで、
生きている時間の儚さと
死ぬことすらホントは特別ではないことを
見せつけられたようでした。 

「ワタシ、先逝っておくね!
宇宙のどこかでまた逢いましょう🦌⸝⋆
See you bye〜」
なんて言われたみたいな感覚。

.

”死とは宇宙の再生プログラムであり
魂と身体にとって、重要なプロセスだ”

などといった事は
仕事柄、他の誰よりも脳ミソでは理解しているはず。

だけど、
目の前で死にそうな人や動物を見ても
平常心で、そういう事を唱えられるかとなると
少なくとも私にはそれは簡単なことではなく
めっきり、死別や別れに弱い人間です。


この一週間、
あの子鹿を思い出さなかった日はないし
何ならお仏壇よりも、手を合わせていた。 

ショッキング映像が目に焼き付いていたけど
少しずつ冷静になりながら
あの日は、あの痛々しい子鹿に立ち合うために
わざわざ支笏湖まで行ったんだと
そう 思うようになりました。


美味しい豆乳チャイや美しい夕焼けは脇役。
あの日のメインは、
負傷した子鹿との遭遇シーンだったと思う。

.

北海道は壮大な自然の残る土地です。
開拓された土地とはいえど、
人間が立ち入れない領域がまだ膨大にある。

その領域とは、森や山でもあるけど
迫力のある景色や神聖で厳かな空気
そして、野生動物たちの世界。
それには"気安く立ち入るな"という印象を受けます。

そんな、北海道の自然と共存していたのが
先住民【アイヌ】の人達。

アイヌの人達はあらゆる万物にカムイ(神さま)が宿っていると信じてきたそう。

特に野生動物は
神が姿を変えて現れてくれたとし
食料や毛皮にしてその命を戴くことに
村を上げて盛大な感謝の儀式を行っていた様です。


そう考えたらあの子鹿は、
たまたま鹿の姿に扮装して現れた
神さまだったと思う。 

人間の様に、同情を乞う思考は全くなく
"生きとし生けるものには必ず終わりがある"
"悲しむな、止まるな、生きろ"
という事を、
言葉ではないもので教えられたようでした。

.

.

人でも動物でも
困っていたり、弱っていたり、苦しむ姿を見た時
「可哀想に…」
「辛いだろうに…」
「寂しいだろうに…」
そう思って見ている時、
その人は目の前の人や動物を
【自分】と重ねて見ているらしい。


自分は無視されたくない。
自分だったら助けて欲しい。
自分だったら心配して欲しい。

潜在的にはそういう意識があるようです。

でも、重ねて見られている対象物は
100%自分とは違う生き物なので
こちらの想像とは違う気持ちなんですよね。


だから本当は
絶対辛いだろうと思えてしまう思い込みと
自分ワールド目線は要らない
ワケです。。


私の話になりますが
移住して1年の去年に比べたら
孤独感や喪失感はだいぶ無くなったけれど
35年居た場所を離れた寂しさと不便さは多少ある。

そんな自分目線から死にそうな子鹿を見たら
「何が何でも生きぬいて  > ~ <  〜!」
「私はあなたを見捨てないよ!」
「どうか頑張って、お願い。。」
そういう気持ちになったという訳です。笑

そういう自分の無意識にも気づかせられた
子鹿との遭遇だったと、
気持ちを整理できるようになりました。

子鹿からしてみたら
自然の働きに則っただけのこと、、
かもしれないのにね。


鹿の神さまが授けてくれたのは
人生なんてあっという間。
さっさとしたいことしなはれ!
さもないと死ぬべさ!
(急に何弁w)
というメッセージ✉✍

それ以降、行動力とスピード感を
私に与えてくれた気がします。

自分ももし、
したいことをしながら生きていた矢先
たまたま交通事故で死んだとしたら
もしかしたら、悔いは無いかもしれない。

生まれ方、死に方はどうであれ
重要なのは人生の中身ですね。

.

.

負傷した子鹿に囚われていた一週間だったけど
ようやく喪が明けました。

子鹿よりも、
それを執拗に悲しんでいた私の心が
noteを書きながら、やっと成仏した気がします。

さぁ、今日から自分の舞台に戻って
また楽しもうと思う。

まとまらない文章を最後まで読んでくださり
ありがとうございます。

Asami

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