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釜石までの道〜2011年から2020年まで①

わたしは2020年8月19日に釜石に移住した。
カレンダーアプリにはその日、「釜石出発!」と書いてある。

離婚して釜石に移住、ということになったのだけれども、
じゃあなぜ引っ越し先が釜石なのか、ということ。

それは2011年4月に、日本ラグビー協会副会長の清宮克幸さんに誘われて、
釜石に支援物資を運びに行ったことに始まる。

当時のキヨ(清宮)さんはヤマハのラグビー部の監督になったばかり。
孝太郎とか家族は東京の家にそのまま住んで、
自分だけ単身で東京から静岡県の浜松市に棲家を移していて、
浜松から陸路東北を目指す途中、
高速道路を降りて、池尻大橋にあったわたしの家へ寄ってくれた。

むらさん、これから釜石いくよ

4月29日朝、キヨさんから電話がかかってきた。
「むらさん? 釜石いくよ。いま浜松出るから」
待ってろ、と。
準備しておけ、と。
マジか?

キヨさんとは、約束はしてた。
3月11日のあと、わたしは伝手をたどって福島県の相馬市に、
避難所で暮らす子どもたちが勉強するためのドリルをたくさん買って運んだ。
それが3月22日のことだ。
そうしたことをSNSなどで発信していたのをキヨさんが知ってて、
それで声をかけてくれていた。
「選挙が終わったら、釜石にいこうよ」
と。

そのとき、4月末にある目黒区議会議員選挙にチャレンジしていた。
まあ受かるだろう、と思っていた。
当時は民主党が政権をとっていて、
カミさんの蓮舫は現役の大臣だったし、

ところが、落ちた。
大差で落選した。
候補者はたくさん受かって少ししか落選しないのに、
その「少し」に入るぐらいの少しの票しか取れなかった。

「次があるよ」
という息子の励ましの言葉を心の支えにして、
選挙があった4月24日の翌日からまた駅頭に立って演説をしていたが、
やらなきゃいけない仕事以外、なにもする気力がなくなっていた。

それよりも、外を歩くのが恥ずかしかった。
街中のみんなから笑われている気がしていた。
仕事関係者は「どのツラ下げてここに来てるんだ?」
口には出さないが、そんな態度の人たちもいた。

ネセサリーロスだ

そんな気持ちが落ち込んでいるときに、
落選した5日後に、「釜石いくよ」と。
「くよくよすんな」と。
ネセサリーロスだ」と。
「困ってる仲間を手伝いにいこうぜ」と。

いや〜、ムリだろう。
釜石って、どこにあるの?
福島そうとう遠かったけど、
まだまだその先、けっこうあるんでしょ?

けど、キヨさんとシン(長谷川慎)はやってきた。
「いま、むらさんの家の前にいるから」

マジか。
でも、行くか。
なにか変わるかも知れない。

キヨさん運転のクルマに乗って、東京を出た。
29日の夜遅くに遠野について、
そこで一泊して、釜石に向かった。

4月30日朝、遠野から仙人峠を超えて、釜石に入った。