ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(10)

第二章 骨の丘(その4)

 彼女の言葉通り、ハッシバル軍の逃避行は惨憺(さんたん)たるものになった。兵糧を全てミストバル軍に奪われ、しかも来る途中で行った略奪・暴行によって住民の怨みを買っている。五日行程のティルムレチスに向かう間に、ある者は飢えと疲労で倒れ、別の者は落武者狩りの手にかかって命を落とす。

 捕虜の人権などという概念自体がない時代である。蓄えを奪われ、家を焼かれ、あるいは家族を犯され殺された農民たちの復讐は容赦のないものだった。数か月前のデクター軍との戦いで数々の奇策を駆使してミストバル軍に勝利をもたらし、功により侯爵家の次席軍師に抜擢されたクーゲル=ンジャールという人物――史家ソン=シルバスの母方の曾祖父に当たる――は、この戦いの直後、被害状況の調査と情報収集のためハッシバル軍の進路となった地域を訪れた際、すでに息絶えたハッシバル兵の死体が群集の歓声を浴びながら通りを馬で引きずり回されている光景や、首筋を材木で押さえつけられ、虫の息となって地面に並べられたハッシバル兵の躰の上で農民たちが乱暴に跳ね回っている場面を目撃したといい、その回想が曾孫ソン=シルバスの『ミスカムシル史大鑑』に引用されている。

 惨敗だった。出撃したハッシバル軍三千人のうち何とかティルムレチスに戻ることができたのは、当初の十分の一にも満たない二百七十余人だったという。ハッシバル家は現有兵力の三分の一、しかも戦力の中核となる精兵を、たった一度の戦いで失ってしまったのである。対して、ペネラ率いるミストバル軍の損害はわずか六十名に過ぎない。

 「ううむ。何たることだ。ミストバル軍の計に落ちて、かような仕儀になるとは。どうしたものか……。」敗戦の責任を問うため開かれた重臣会議の審問に呼び出されるのを待ちながら、落ち着かなげに控え室の中を行ったり来たりするガルキン。

 「ご心配はいりませぬ。将軍を処罰させるようなことは断じてさせぬとサフィアさまもおっしゃっておられることですし……」やはり審問に呼び出されていた部下の一人が、傍らから声をかける。

 「そんなことは当然だ!」ガルキンは怒鳴った。「だが、私の立場は、名誉はどうなる! たとえ処罰は免れたとしても、政敵どもがこれ幸いと私の悪口を言いふらして回るに決まっておる。伯爵が彼らの言葉を取り上げて、私から将軍筆頭の地位を奪うようなことがあればどうするのだ!」

 「そ――」それも仕方のないことでは、と言いかけ、部下は慌てて口をつぐむ。無能なくせにわがままで自尊心ばかり強く、しかも陰険で執念深いこの上官にそんなことを言ったら、後からどのような目に遭わされるか分からない。

 黙り込む部下には目もくれず、なおもうろうろと部屋の中を歩き回るガルキンだったが、やがて急に立ち止まると、独り言のようにつぶやいた。「そうだ、コルダールだ。タスカ=コルダールだ。」

 「は?」

 「やつがミストバル軍に内通していたに違いない! その証拠に戦いの前からことごとく私のやり方に異を唱え、わが軍の士気を鈍らせようとしていたではないか。初陣のくせにわざわざ危険の高い殿軍(しんがり)を買って出たのも怪しい。捕虜になったというのもおそらく偽りで、殿軍となったのを幸い、内通の発覚を怖れてミストバル軍に逃げ込んだのだ!」

 「し、しかし、それはあまりにも……。」

 「いや、そうに違いない。そうでなければならぬのだ。良いな。全てはコルダールが敵に内通していたため。きゃつの内通さえなければこの戦は勝っていたはず、そう証言するのだ。」

 「はあ……。」

 「いや、もしかすると、これはなかなかの僥倖(ぎょうこう)かも知れぬぞ。」困惑した表情の部下をよそに、ガルキンは独りごちた。「コルダールの一族め、最近では宮廷内で力を蓄え始め、わがガルキン一族の地位を脅かすまでになっておる。今、コルダール一族から敵への内通者が出たということになれば、それを口実に一気に奴らの力を削いでしまえるではないか。これを利用せぬ手はない……。」

 こうなればもう、あとは単なる茶番に過ぎない。最初から結論は決まっていて、それに都合の良いように話が組み立てられていくだけ……。審問に呼ばれた証人たちは口をそろえて、ガルキンの戦いぶりがいかに見事で勇敢なものだったか、タスカがいかにそれを妬み、ガルキンの寛大さを良いことに、あれこれ理屈をこねてはハッシバル軍の進撃を引き留めようとしたかを述べ立てる。

 コルダールはまだ敵の姿さえ見ぬうちから怖れおののき、軍議の席でも戦を止めて兵を引くことばかりを主張しておりました。むろん、自ら兵の先頭に立って敵に立ち向かったことなど全くございませぬ。行く先々の村々は諸手をあげて我らを迎え、ガルキン将軍の武勇とハッシバル家の恩徳の前に跪(ひざまず)いておりました。にもかかわらず、コルダールが我が軍の大義を説き聞かせようとせず、逆にハッシバル家の威光を傷つけるようなことばかりを吹き込んだため、彼らの心は我が軍から離れてしまったのです。挙げ句の果てにコルダールは、軍の撤退をみずから進言しておきながら、殿軍をまかされると急に怖じ気づき、ほとんど戦おうともせずにミストバル軍に降伏してしまいました。いや、もしかすると彼は以前から敵に内通しており、殿軍となったのをこれ幸いとミストバル軍に逃げ込んだのではないでしょうか……。

 こうして、敗戦の責任は全てタスカ一人に押しつけられ、ガルキン、さらに生き残った他の指揮官たちは、審問にこそ呼ばれたものの、結局何一つ咎めを受けることなく終わった。責任を問われなかっただけではなく、勇敢さ・見事な指揮ぶりを称えられて、多額の褒美と数々の栄誉さえ与えられたのである。

 一方で、ティルドラスやチノーの懸命の反対も空しく、ガルキン家と並ぶ譜代の重鎮であったコルダール家には「裏切り者の一族」の汚名が着せられ、両親を始めとする近親者には片端から財産没収や官位の剥奪、宮廷からの追放といった処置が下された。コルダール一族が宮廷を逐(お)われた後にはサフィアやガルキンの息のかかった人間が送り込まれ、彼らの宮廷内での権力は逆に強化されることになる。

 囚われの身でこの話を伝え聞いたタスカは怒り悲しみ、結局、ペネラの言葉通りミストバル家に降伏してしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?