ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(8)

第二章 骨の丘(その2)

 「夜襲でございますか?」あまりにも陳腐な作戦である。遠路を行軍してきた軍勢が疲れて寝入っているところを襲って一気に勝ちを収め、形成を逆転する――。不利な状況に追い込まれれば誰でも一度は考えることだろうし、当然、相手もそれを読んで備えをしてくるに違いない。

 「ええ、分かっています。」ペネラはうなずいた。「誰でも考えつく作戦ですし、また、誰でもそれを読んで用心するでしょう。だからこそ、そこに勝機があると思いませんか?」

 彼女の予想通り、翌日の夕方、ハッシバル軍がボーンヒルの麓に姿を現す。そして丘のすぐ下に広がる平地に陣を布き、野営に入った。

 「私が考えるに、今夜、おそらくミストバル軍は夜襲をかけてくるのではなかろうか。」本陣に集まった幕僚たちを前にガルキンは言う。「『長駆シテノチ敵前ニ野営スルニ際シテハ夜討チ朝駆ケニ心スベシ』とクロスキンの兵法にもある。しかしまた『敵ノ計ヲ逆用シテ勝利ヲ収ムルハ兵道ノ極意ナリ』ともいう。敵が夜襲をかけてきたならば、逆に奇策を用いて一気に砦を攻め落としてしまおうと思うのだ。」

 「それより、ここは一度陣を解き、丘から離れたところに野営場所を移すべきではないでしょうか。」タスカが口をはさんだ。「この周囲は湿地帯で野営には適しておりませんし、何かで暗闇の中を移動することになれば沼に落ちる怖れもあります。何より、ここではあまりに敵陣に近すぎて危険です。むしろ、十里ほど手前にあった乾いた広い空き地の方が野営場所としては適しているでしょう。今の敵味方の兵力を考えれば正面からでも砦を攻め落とすことは容易です。ここ数日の強行軍で兵士たちも疲労しておりますし、今宵は安全な場所で軍を充分に休ませ、夜が明けてから砦に総攻撃をかけた方が良いのでは?」

 「またお前か!」露骨に不興げな表情を見せながらガルキンは言う。「何か遺恨でもあるのか。いちいち私に逆らう……。」

 「しかし将軍、定法を軽んじていたずらに奇策に頼ることは、かえって軍を危うくする危険が――」

 「コルダール!」周囲から年かさの幕僚たちの叱責が飛ぶ。「口を慎むが良い。将軍には勝利の成算がおありになるのだ。若年のお前ごときが口をはさむでない!」

 「その通りだ。」うなずくガルキン。「私の策略はこうだ。このあと、敵には我らが寝入ったように見せかけて、実は眠らずに陣営の中でミストバル軍を待ち受ける。敵が夜襲をかけてきたならば、ただちに反撃し、全軍を挙げて逃げる敵を追撃するのだ。敵は当然砦へと逃げ込もうとするであろうが、彼らに続いて我らも砦になだれ込む。そうなれば、ミストバル軍ごとき物の数ではない。夜明けまでには砦を落としてみせるわ。」

 「お見事でございます、将軍! 今の策を用いれば、味方の勝利は疑いありますまい。」周囲からあがる、お追従混じりの賛嘆の声。

 「では、ただちに部署に戻り、敵の夜襲への備えを固めよ。おそらく今夜は夜通しの戦いとなる。居眠りなどせぬよう、兵士たちに徹底的に気合いを入れておけ。」満足げに周囲を見回しながら、ガルキンは言った。

 その晩、真夜中を少し回った頃だった。突然、ハッシバル軍の野営地のすぐ横で喚声が上がったかと思うと、鳴り物が激しく打ち鳴らされ、続いて火矢が陣営に向かって次々に射込まれる。

 「夜襲だ!」完全武装の兵を率いて陣営内で様子をうかがっていたガルキンが叫ぶ。「かかったぞ! 全軍で追撃だ!」

 ハッシバル軍は我先に陣を飛び出し、暗闇の中で鳴り響く敵の鳴り物めがけて突き進んだ。予想もしなかった反撃に驚いたのだろうか。ミストバル軍はほとんど攻撃らしい攻撃もせぬまま、ただちに撤収の鉦(かね)を鳴らして退却していく。

 「追え! 逃がすな!」みごと的中した作戦に、ガルキンは有頂天になって叫ぶ。「逃げる敵の後から砦になだれ込め! これで砦は落ちると決まった!」

 「将軍!」彼の傍らでタスカが叫んだ。「深追いすべきではありません! 暗闇で道が分かりませんし、全軍で追撃してしまうと、その間、陣営がもぬけの殻になってしまいます。敵の別働隊に兵糧を奪われる恐れが――」

 「やかましい!」ガルキンはタスカを一喝する。「きさま臆したのか! 暗闇が何だ。将帥たる者が、たかが暗闇に怯えていて戦ができるか! 砦さえ落としてしまえば、敵の別働隊など恐るに足らぬわ。ものども進め!」

 なおもミストバル軍を追撃するハッシバル軍。しかしどうしたことか、追っても追っても相手を捕捉することができない。ともあれ退却の鉦だけは聞こえてくるので、音を頼りに暗闇の中をがむしゃらに進む。いつしかあたりは一面の沼地となり、道は細く、大勢が一度に進むことはできない。強引に先に進もうとする兵士の中には、深い泥の中に踏み込んでしまい、身動きが取れなくなる者も現れはじめた。

 と、突然、前方で鳴っていた鉦の音が止む。

 「!?」

 目標を見失い、立ちつくす兵士たち。「な、何だ。」戸惑った表情でガルキンは言う。「どうしたことだ。ミストバル軍め、いったいどこに消えおった。」

 気がつけば、周囲は来た道がどちらかさえも分からない暗闇。足元には葦(あし)や蒲(がま)が生い茂り、少しでも脇に逸(そ)れれば泥の中に足が埋まってしまう、迷路のように入り組んだ沼地のただ中だった。

 「将軍、引き上げましょう。このままここにいては危険です。いや、あるいは、すでに敵の術中に落ちてしまったのかも……。」タスカが小声で言う。

 「そ、そんなことはあるまい。」とガルキン。しかし、言葉とは裏腹に、彼の声は震えていた。「だが、君の言うことも一理ある。とりあえず今は引き上げ、明日に備えて休養をとるべきだろう。クロスキンの兵法に曰く……。」

 だが、彼の言葉がまだ終わらないうちに、少し離れた高台の上から一発の狼煙(のろし)が空に向かって打ち上げられる。同時に周囲の闇のむこうで激しく鳴り物が打ち鳴らされ、無数の矢がうなりを上げてハッシバル軍の上に降り注いできた。

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