ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(9)

第二章 骨の丘(その3)

 一瞬にして全軍が恐慌を来す。慌てて逃げようとして沼に落ち溺れる者、立ちすくむところに矢を受けて倒れる者、やみくもに武器を振り回して同士討ちをする者、見当違いの方角に逃げて本隊からはぐれてしまう者など、闇の中でハッシバル軍は収拾のつかない混乱状態に陥った。

 「隊列を崩すな!」叫ぶタスカ。「防御の陣形を取れ! 敵は小勢だ。落ち着いて体勢を整えてから反撃しろ。むやみに攻撃を仕掛けて同士討ちをするな!」

 彼の言葉も空しく、兵たちは我先に、もと来た方角へと逃げていく。しかし道が分からず右往左往しているところに、今度はミストバル軍得意の魔法攻撃が始まった。暗闇のむこうから光の尾を引いて飛来するエネルギーの塊がそこかしこで轟音と共に炸裂し、そのたびに何人かの兵士が吹き飛ばされる。「魔法部隊!」とタスカ。「魔法部隊! 防御結界を張れ! 弓兵隊、魔法攻撃の方角を見定めてその方向に矢を浴びせろ! 残りの者は隊列を崩さずに退却! 広い場所に出たら陣形を整えて反撃に移る!」

 何人かの兵士が彼の言葉に従おうとしたものの、魔法部隊はばらばらに散らばっていてまとまった行動がとれず、弓兵隊も味方の人波に揉まれて狙いを定めるどころではない。その間もミストバル軍の弓弩と魔法による攻撃は続き、逃げ場を失った兵たちは次々と沼に落ちて、ハッシバル軍の兵力はみるみる減っていく。

 なんとか沼地を抜け出して野営地の近くにたどり着いたときにはガルキンに付き従う兵は最初の五分の一ほどに減っていた。しかし、それで終わりではなかったのである。

 「!!」

 野営地では天幕が燃え上がり、炎を背に、三百ほどの軍勢が、紫地に白く羊歯(しだ)の葉の紋を染め抜いたミストバル家の旗をたなびかせながら、隊列を布いて待ちかまえていた。

 「遅かったわね。」隊列の先頭に立ったペネラがハッシバル軍に向かって声を張り上げる。「矢玉も兵糧も全てわが軍がいただいたわ。この敵中で武器も兵糧もなく立ち往生してどうするつもりですか。さあ、おとなしく降伏なさい!」

 「く、くそ!」歯がみするガルキン。「えい、何ほどのことがある! 敵は小勢だ。踏み潰して兵糧を奪い返せ! 突撃!」

 号令を受け、半ば自棄(やけ)気味にミストバル軍に突進するハッシバル軍。同時にペネラが手にした采配をさっと振り、それを合図にミストバル軍もハッシバル軍に向かって突き進む。

 人数こそ多いものの、陣形も整わず、加えて強行軍と徹夜で疲れ切ったハッシバル軍はミストバル軍の鋭い攻めにあっという間に突き崩され、たちまち足元が乱れ始める。そこに、追撃してきたミストバル軍の伏兵が背後から襲いかかった。前後からの挟撃を受け、ついにハッシバル軍は総崩れとなる。

 「あああ!」先ほどまでの尊大な態度はどこへやら、雪崩をうって逃げまどう軍の中で、ガルキンは情けない声をあげる。「助けてくれ! 捕まってしまう!」

 「将軍!」彼の傍らから、崩れかけた軍をなんとか立て直そうと兵たちを叱咤していたタスカが叫んだ。「もう支え切れません! 私が殿軍(しんがり)を務めます。ここはお逃げ下さい!」

 「わ、分かった。」とガルキン。「全軍退却! ティルムレチスまで引き上げろ!」

 敗兵を率いて逃げ出すガルキン、後ろから追いすがるミストバル軍、自ら兵士たちの先頭に立って得物の戟(げき。ハルバート)を振るい、群がる敵を押し戻そうとするタスカ。タスカの周りに付き従う兵は百にも満たない数であるが、彼の指揮に従って一糸乱れぬ動きを見せ、勝ちに乗るミストバル軍に付け入る隙を与えない。「目標変更!」ペネラが叫ぶ。「敵の本隊に構わず、殿軍の部隊だけを全軍で囲め! 無理押しはするな! 遠巻きに囲んで敵の疲れを待て! できれば殺さずに生け捕りにしろ!」

 号令に応じてミストバル軍がタスカの部隊を取り囲む隙に、ガルキンの率いる本隊はなんとか脱出に成功した。残されたタスカはなおも手兵を率いて奮戦したものの、夜明けと共についに力尽き、自害する間もなく、生き残ったわずかの兵もろとも捕虜となってしまう。

 「ノイさま、敵将を連れて参りました。あの戦いぶり、よほどの古強者(ふるつわもの)かと思いきや、このような若者でして。」後ろ手に縛られたタスカをペネラの前に引き据えながら部下が言った。「いや、しかしお見事な采配でございました。我らの夜襲を待ち受けている敵を、逆に少人数の囮(おとり)を使って沼地の中に誘い込み、思うように動けなくなったところを四方から弓弩と魔法で殲滅する……。古(いにしえ)の名将といえど、かほどに鮮やかな策を用いて勝利を得た例は希でございましょう。ただ、敵の本隊を取り逃がしたは無念。あと少しでガルキン本人を虜(とりこ)にできましたものを。」

 「いえ、ガルキンを捕えるより、この男を捕えた方が何倍もの値打ちがあります。」ペネラは笑う。「考えてもごらんなさい。ハッシバル軍を率いるのがガルキンのような無能な男だからこそ我が国は安心していられるのですよ。今もしガルキンを捕えてしまって、代わりにこの男が軍を率いるようなことにでもなったらどうします。ならば、ガルキンなど逃げるに任せておいて、この男を捕えた方がはるかに我が国のためになるというものです。」

 「なるほど。」

 「心配はいりません。進軍中の行為でハッシバル軍は農民の恨みを買っています、おそらく国境を出る前に、逃げた兵の半分は落武者狩りの手に倒れるはず。ま、それでもガルキン本人は逃げのびるでしょうけどね。ああいう無能で卑怯な男に限って、保身の術には長けているものですから。ところで敵将さん、あなたの名前をまだ聞いていませんでしたね。」ペネラはタスカの方に向き直った。

 「人に名を訊くなら、まずはあなたから名乗るのが筋というものでしょう。」ペネラの方を睨みながらタスカは言う。

 「あら、これは失礼。」とペネラ。「私はこの砦の校尉、ペネラ=ノイです。あなたは?」

 「私はコルダール……。タスカ=コルダール。」

 「コルダール……。ハッシバル家では名門の一族ですね。しかし、見事な指揮ぶりでしたが、ハッシバル軍にあなたのような将がいるとは聞いていませんでした。もしや初陣ですか?」

 「はい。初めての戦でこのように捕らわれることになったのは無念ですが、これも私の力不足の故でしょう。敗れた以上、見苦しい態度を取るつもりはありません。首を刎ねられるのは覚悟の上です。……ただ、配下の兵たちは許してやってほしいのです。」

 「ええ、いいでしょう。」ペネラはあっさりとうなずいた。「我々としても、別に無駄に人命を損じたいわけではありません。武装を解除した上で、後方に捕虜として移送します。いずれ両国の間で和議が整えば、何らかの見返りと引き替えに全員帰国することも可能でしょう。」

 「感謝します。」彼女の言葉にタスカは深々と頭を下げる。「これで、首を刎ねられても思い残す事はありません。」

 「別に首を刎ねるつもりはありません。」ペネラは笑う。「どうです、ミストバル家に仕える気はありませんか。我が国の主、アブハザーン侯爵は才ある人物を愛される方です。あなたほどの武勇、兵士への思いやりを持った人物であれば、必ずや重く用いられることでしょう。いたずらに死を急がず、その才を我が国で存分に振るってみては?」

 「見損なわないでいただきたい!」彼女の言葉に、タスカは色をなして叫ぶ。「我が一族は代々ハッシバル家の恩顧を受け、伯爵家で重んじられてきた家柄。それを、命を惜しんで敵に降るようなまねができると思われるのか!」

 「代々の恩顧……ね。」彼の言葉に、ペネラは何やら嘲笑うような、冷ややかな笑みを浮かべる。「それが、あなたの言うほど大事なものですか?」

 「無論です。」とタスカ。「譜代の臣、コルダールの名を継ぐ者として、生きるも死ぬも、全ての運命を伯爵家と共にする事こそ我が使命。たとえ首を刎ねられても、決して降伏など――」

 「一つ言っておきます。」タスカの熱弁を遮って、ペネラは静かに言った。「あなたの一族は伯爵家と運命を共にしているつもりかもしれませんが、伯爵家の方では、決してそんな事は考えていませんよ。いずれ裏切られることになるでしょう。」

 「? それはどういう……。」

 「さあ、どういう事かしらね。」とペネラ。「いずれ分かります。時が来れば、おそらくあなたの気持ちも変わるはず。それまでは牢に入っていて下さい。」そして彼女は傍らの部下を振り返る。「連れて行って。扱いは丁重に、しかし決して逃がさぬように。」

 彼女の前から引き立てられていくタスカ。彼の後ろ姿を見送りながら、ペネラは哀れむような口調で「気の毒に。見捨てられるとも知らずに……。お互い、上官に恵まれなかったわね。」とつぶやき、続いて、ハッシバル家の本隊が退却していった湿地の彼方に視線を移す。「さあ、逃げるなら逃げなさい。ただ、これまでやってきた事の報いは存分に受けてもらいますよ。」

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