ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(6)

第一章 宮廷の日々(その6)

 「軍を率いる将軍の人選でございますが――、」一座を見回しながらサフィアが切り出した。「やはり、ガルキン将軍を置いて他におりますまい。どなたか異存のある方は?」

 出席者たちの間で交わされる目配せ。彼女が愛人関係にあるガルキンに手柄を立てさせたがっているのは明らかだった。短い沈黙のあと、一同を代表するように「それが宜(よろ)しゅうございましょう。」とネイカーが口を開き、他の者たちもうなずく。ガルキンでないとすれば真っ先に名が出るのは伯国第二軍の上将軍であるデューシンだろうが、彼もにやにや笑いながら椅子の背にもたれたまま、何も言おうとしない。

 「異存がないとあれば、ただちに出兵の準備を――」口を開きかけるサフィア。

 「お待ち下さい。」一気に出兵に傾きかける周囲の空気の中、一座の末席から声が上がった。ティルドラスの即位後、新任の尚書ながら、彼の信頼する側近として重臣会議に参加する資格を与えられていたチノーである。「ここは外征より内政に意を用いるべきでございます。たとえ今ティルムレチスから討って出て、首尾良くミストバル領の地ををいくらか併せたとしても、地形は平坦、守るべき兵力も足りず、結局のところ長きにわたって保持することは難しいかと存じます。ならば、徒(いたずら)に危険を冒し兵力を損じることは避け、むしろ国内の安定に力を注ぐ事こそが……。」

 「チノー、出すぎておるぞ!」皆まで言わせず、重臣の一人が苛立たしげに叫んだ。「自分の身分をわきまえておるのか。そちは一介の尚書。本来ならこのような席に出ることさえ許されぬ身ではないか!」

 「全く。お前にせよ、ダン公子の頃のオーエンにせよ……。伯爵の恩寵に狎(な)れて身の程を忘れるでないぞ!」別の重臣も、咎めるような口調で言う。

 「しかしながら、現在の我が国の状況を鑑(かんが)みますに――」オーエンの名を出された事に気分を害したのだろうか、少々むきになった口調で言葉を続けようとするチノー。

 「チノー、お下がりや。」一見もの柔らかな、だが有無を言わせぬ調子でサフィアが彼を遮った。「これは伯爵家の大事。そちごとき者が口を挟むべきものではない。次の間に下がって、呼び出しがあるまで控えおれ。」

 「いや叔母上、私はむしろチノーの申すことに理があると――」彼女の隣からティルドラスが口を挟もうとするが、サフィアは優雅に片手を振っただけで彼を制し、傍らの侍従を呼び寄せる。

 「これ、伯爵はお疲れのようじゃ。あちらにお連れするが良い。――あとは我らが良きに計らいますによって、ご心配は不要でございます。ゆるりとお休み下さいませ。」

 「しかし、私の意見も――、放せ、何をする、私は退室するなどと言っていない。叔母上? 叔母上! では、私はいったい何のために呼ばれたのですか!」

 「伯爵、ご退室うぅ。」式部官の声。

 こうしてチノーばかりかティルドラスさえ追い出されたまま会議は続けられ、議論は全会一致で出兵に決定した。軍の指揮はサフィアの意向通りガルキンに委ねられ、ハッシバル家の現有兵力の三分の一にあたる三千の兵力、選りすぐりの精鋭が彼の麾下に集められる。

 ミストバル領への侵攻軍がハッシバル領を後にしたのは、ティルドラスの即位から三か月後の夏八月のこと。前進基地となるティルムレチスの城に集結した三千の兵は、城内で数日間の休息を取ったのち、ガルキンに率いられて城を後にし、ミストバル領へと通じる道をたどって行く。

 「ドゥーカン、今回の出兵をどう思う。正直なところを言ってくれ。」遠ざかる軍勢を城門の上の櫓から見送りながら、ティルムレチスの守将・グスカは、傍らに控える参軍(さんぐん。軍団参謀)のドゥーカンに小声で尋ねた。

 「兵の出し方には五つの種類があると聞きます。」ドゥーカンは言う。「暴虐の支配者を倒し民の苦しみを救うために武器を取って決起する。これを義兵と言って天下に覇をとなえることができます。いわれのない戦いを仕掛けられ、万策尽きてやむを得ず立ち上がる。これを応兵(おうへい)と言って勝利を得られます。一時の感情に身を任せ、大局を見ようともせずに軽々しく兵を動かす。これを憤兵(ふんへい)と言って必ず敗れます。相手の領土や富を力で奪おうと欲得ずくで軍を出す。これを貪兵(たんぺい)と言って国を破ります。自国が偉大で富強だと驕り高ぶり、それを見せびらかすためにいわれもなく戦を仕掛ける。これを驕兵(きょうへい)と言って国を滅亡させます。」

 「相変わらず能書きが長いな……。大丈夫だ。ここには俺とお前しかおらん。ごまかさずに本心を言ってみろ。」

 「今の五つのうち、今回に当てはまるのは憤兵でしょうか。勝利した後にいったい何をするのかという目的もなく、敗れた時にそれをどう収めるのかという見通しも全くない。後先も考えず、ただミストバル家の弱みにつけ込んで勝利を収めようというだけの理由で兵を動かしています。まさに戦のための戦。おそらく敗れて戻ってくるはずです。」

 「……俺もそう思う。」

 「問題はその負け戦が、いつ、どのような形で訪れるかです。緒戦で敗れてあまり損害のないうちに引き上げて来るなら傷は浅いでしょうが、敵中深く進んだ後に大敗を喫して兵のほとんどを失うようなことがあれば由々しき事態となります。さらに、戦を無駄に長引かせ、国力を注ぎ込んだ上で敗れた場合、国の滅亡にもつながりかねません。」

 「我々は何をするべきだろう。」

 「どうしようもありません。我々が何を言っても聞くガルキン将軍ではありませんし、サフィアさまも同じこと。一方でティルドラス新伯爵は即位されたばかりでまだ宮廷内を掌握し切れていない。止める力のある人間には止める見識がなく、止める見識のある人間には止める力がない。口惜しい限りです。ただ、せめて、敗れて帰ってきた兵たちを少しでも多く収容し、わが軍の敗北につけ込んで他国が兵を動かすようなことがあっても、このティルムレチスで食い止められるよう万全の備えをしておくこと、これだけは心がけておかねばなりません。」

 「それ以外にないのか。」

 「残念ながら。」

 「そうか……。」ドゥーカンの言葉に、グスカは大きなため息をつき、続いて、彼方の兵士たちへと目を移す。「帰って来いよ。一人でも多くな……。」

 次第に小さくなっていく兵士たちの姿。彼らの頭上には、いつしか人の顔をした鳥たちが、血と死体の予兆を感じて群れ集まりはじめていた……。

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