ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(14)

第三章 フィリオの細流(その4)

 動き始めた戦争は、所詮、一公女の諫言で止まるものではなかった。両国が戦端を開いたのは、ボーンヒルの戦いの直後、夏八月の中旬のこと。まずトッツガー軍の先鋒部隊が威力偵察を兼ねてフォージャー領に侵入し、迎撃に現れたフォージャー軍と交戦、双方ともに大きな損害を出さないまま引き上げる。続いて、将軍トゥーン=カークトン率いる三千の兵が、フォージャー領に向けてアシュアッカを進発した。

 トッツガー軍動くの報は、ただちに忍びの者によってフォージャー家の国都アッドゥーラにもたらされた。報せを受けて宮廷が慌ただしく動く中、至急登城して相談に乗ってほしいというコダーイからの使いがオーエンのもとに現れる。何事かと急いで馳せ参じたオーエンに向かって、開口一番、コダーイは言った。「オーエンどの、此度(こたび)の戦について、あなたのお考えをお聞きかせ願いたい。」

 「私見を述べさせていただければ……、おそらくトッツガー家としては、この戦いを、領土を得るためとは位置づけておりますまい。これまでの報復として、国境の村々を荒らし回り、自国の威を諸国に見せつけることを主眼に置いているものと思われます。つまり、ひとたび侵入を許してしまえば、民への被害は甚大なものとなります。延(ひ)いてはそれが国の衰えにつながりかねません。それを防ぐためには、敵の侵入そのものを阻む必要があります。」オーエンは答える。

 「ふむ。」

 「問題は周囲の地形です。」机の上に広げられた地図を指し示しながらオーエンは続ける。「普通に考えれば、今回の戦場となるのは国境付近の平野部、おそらく騎兵同士の戦いが帰趨(きすう)を決することとなるはず。しかし、騎兵の力ではトッツガー家が圧倒的に勝(まさ)っていると言わざるを得ませぬ。残念ながら、フォージャー家が不利でございましょう。」

 「実際、忍びの者からも、此度のトッツガー軍は騎兵を主力としておるとの報告が入っている。何か策がおありかな?」

 「敵の堅きを避けて弱きを衝(つ)くのが兵法の常道でございます。」騎兵の強みは平地での機動力と強力な突破力にあり、弱点は険阻な地形で行動が制約され、また、糧秣の輸送に時間と手間を要することにある、とオーエンは説明する。それを今回の状況に当てはめれば、トッツガー家は平坦な地形のもとで一気呵成に勝利を収めるのが理想であり、対するフォージャー家は険阻な地形に拠(よ)って敵の疲れを待つのが有利である――。「アシュアッカを発したトッツガー軍が国境に至るまで、少なくともあと十日はかかるはず。一方、アッドゥーラから国境までは六日の距離。ここは、道程が近いことを生かして、機先を制して敵地に入り、国境の東に位置する、街道に沿った丘陵地に陣を布くのが上策と思われます。ただ、非常に危険も大きいため、軍を率いる将軍の人選には熟慮を要しましょう。」

 「なるほど。」コダーイはうなずいた。「では、あなたに軍師をお願いしたい。引き受けていただけますな?」

 オーエンは目を見張る。「しかし、ご家中の方を差し置いて、私ごときが左様な大役を受けるのは……。」

 「いや、あなたしかおらぬ。」コダーイは静かにかぶりを振った。「これまで何人かの者に方策を尋ねたが、皆、勇ましいだけの空疎な言葉を並べ立てるか、戦の全貌も見渡せぬまま小手先の策を弄するばかりで、実のある建言を行った者は一人もおらなんだ。お恥ずかしいが、あなたに勝る者は見当たらぬのだ。」

 「では、ダン公子に軍の指揮を委ねていただきたい。私はその下にあって補佐となります。勝利の鍵を握るのはおそらくアクラユどの。必ず加わっていただかねばなりません。さらに、ご家中の校尉の方を何名かお借りします。」

 「承知した。」

 「もう一つ。この策は敵地深く入る必要があり、万が一退路を塞がれた場合、退くことができぬまま敵中に孤立する危険があります。それを防ぐため、後方にあって臨機応変に動き、糧秣輸送の道筋と退路を確保する役目の方をお願いいたします。」

 「第三軍雑号将軍のシャンジェム=グァンがよろしかろう。若年ながら、用兵は慎重にして堅実。かような役目に向いておる。」とコダーイ。

 オーエンの献策を受け、ただちにフォージャー軍も動く。名目上の総司令官は、ダルパット侯爵の第二夫人アマンドラの父であり、侯爵家の世嗣ユージンの外祖父でもある将軍筆頭のレオポルド=ソピオに決定した。兵力は四千。そのうち、歩兵を中心とした二千五百人を前軍としてダンが率い、オーエンとアクラユ、さらにフォージャー家の校尉数名が彼の指揮下に置かれる。

 この戦いは、事の発端となったトッツガー領の村の名から、後に「フィリオの戦い」と呼ばれることになる。そして「フィリオの細流」といえば、大事件の引き金となる些細な出来事のことを指して言うようになった。

 集められたフォージャー軍はただちにアッドゥーラを進発し国境地帯へと急行。ダン率いる前軍はそのまま国境を越えてトッツガー領内に進み、騎兵を中心とした残りの千五百はそのまま後軍として国境周辺に留まって、前軍の退路の確保と前軍が突破された時の後詰めの役割を担う。

 「先を急げ。道筋の村々には目をくれるな。」トッツガー領内の道を東へとたどりながら、オーエンは兵士たちに指示を飛ばす。「略奪は厳禁。命に背いて略奪を行った者は敵前逃亡と同等の罪を犯したものとみなす。あと、田畑を荒らさぬよう気をつけろ。」さらにオーエンは村々に使者を送って、農民たちに平静を保つよう呼びかける。今回の出兵はトッツガー家の侵攻から自国の領民を守ることが目的であり、決して民を苦しめる意図はないこと。トッツガー領内への進軍も一時的なもので、戦いが終わればただちに撤退する予定であること。略奪や物資の徴発を行うつもりはないため、落ち着いて普段通りの暮らしを続けるべきこと……。

 略奪を楽しみにしていた兵士たちからは不満も漏れるが、オーエンは断固として方針を曲げようとはしなかった。『民を敵に回してはいかん。』彼は考える。『先日の跡目争いの中でも、民を味方につけられなかったことが大きな敗因となった。ましてや、今、我々は敵中に孤立した立場だ。ここで民の恨みを買えば、強敵を前にして後方を脅かされることになりかねん。それだけは断じて避けねば。』

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