ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(3)

第一章 キコックの助言(その3)

 虎賁(こほん)の詰め所の捜索が進むにつれ、凄惨な事実が明らかになる。地下の牢獄から、少なくとも数十人分の腐乱した死体と人骨が発見されたのである。生存者はツェンツェンガ以外に二名のみで、いずれも拷問を受けたあと食べ物もろくに与えられぬまま放置され、死ぬ寸前での救出だった。
 詰め所の関係者は書記官から雑用係に至るまで片端から拘引され、厳しい取り調べが行われる。その中で、地下の囚人と死体の多くは、ジニュエによって囚われた者たちであることが明らかになった。
 もともとバグハート家では以前から、子爵家への批判や不満を口にする者たちを密かに当局に告発できる密告制度が敷かれていた。そうやって作り上げられた監視と抑圧のための仕組みは、ハッシバル家との戦いが劣勢に傾く中、メイル子爵と令尹(れいいん)のアンベンバが、摘発の権限を正規の法官たちから切り離して自分たちに従順なジニュエと彼の麾下の虎賁の兵に委ねたことで暴走を始める。
 戦で生活が苦しくなったことに不満を漏らした。軍による食料や物資の徴発に抗議した、戦が始まる前にハッシバル家からの援助で穀価が下がったことを懐かしんだ――。そうした、深い意図や子爵家への明確な叛意があるわけでもない言動を行った者たちが、子爵家への反逆者、ハッシバル家への内通者として密告され、虎賁の詰め所へと連行される。密室の中での尋問。取り調べにあたるのは、そのための知識も経験も何一つ持たないまま、とにかく罪人から自白を引き出し服罪させることだけを命じられた兵士たちである。密告の内容が事実かどうかなど関係ない。ここに連れてこられたこと自体が有罪の証拠なのだ。白状するまで徹底的に痛めつけてやれ。子爵も令尹もそれを望んでおられる――。こうして多くの者たちが牢獄の中で残酷な拷問を受けて命を落とすこととなった。
 さらに調べが進むうちに、密告の多くが薄弱な証拠や虚偽の証言によるもので、メイルやアンベンバの機嫌取り、密告者に与えられる報酬、さらには恋敵や仲の悪い相手を陥れたり、単なる妬みや憂さ晴らしのためだけに密告を行った者も少なくなかったことが判明する。その中で「子爵家への忠義の士」を名乗って徒党を組み、組織的な密告や偽証、疑いをかけられた者たちへの暴力や脅迫を行っていた者たちの存在も明らかになる。
 これに対するティルドラスの措置は、普段の彼の言動からは想像もつかないほどの苛烈なものだった。彼の厳命のもと、生き残った囚人や運良く釈放された被疑者の証言、拘引された牢獄の関係者の供述、接収した公文書の記述などから密告を行った者が次々に割り出され、厳しい追及を受ける。さらに、ハッシバル家が密告者の摘発に乗り出したことで、これまで後難を恐れて沈黙していた密告の被害者たちも声をあげ始めた。
 かつての告発者が今や告発される側となる。密告者たちは恐慌を来し、中には逃亡を試みる者も現れたものの、多くは逃げる間もなく捕らえられ、誣告(ぶこく)の罪で裁かれることとなった。
 追及の手は実際に被疑者の拷問・殺害を行った虎賁の兵と指揮官であるジニュエにも及んだが、こちらは行方が分からないため、密告者たちだけが先に裁判にかけられる。「裁きは必ず複数の証拠・証言に基づいて行い、自白のみを根拠として有罪の判決を下してはならぬ。断じて無実の者が罰を受けることがないように心がけよ。」裁判を行う法官に対して細かく指示を飛ばすティルドラス。「ただし刑は必ずしも軽くする必要はない。ハッシバル家、バグハート家いずれの法でも、誣告には、誣告を行ったその罪に相当する刑を課すこととなっている。この場合、密告された者たちの多くが罪無くして獄中で死ぬこととなった。無実の人間を陥れて刑死させた者と同等の刑に処すのが妥当かと思う。」
 「しかし、」彼の言葉に法官は目を見張る。「しかし、それでは死罪以外の刑は考えられませぬが。」
 「そういうことだ。」ティルドラスは静かに頷いた。
 この厳しい裁きは周囲を驚かせる。もともとティルドラスは、バグハート家の捕虜や、彼自身を誹謗する芝居を書いたとして罪に問われたマリオン=ホッホバル、彼を暗殺しようとして捕らえられた「蝉」「蜘蛛」の二人の忍びへの扱いなどからも分かる通り、むやみに人を罰したり殺したりする人間ではなく、むしろ敵や罪人に対して甘すぎると陰口を言われることが多かった。それが今回は、少なくとも十人以上に及ぶ罪人たちを死罪とするようにというのである。驚いたのはチノーやリーボックなど以前から彼をよく知る者たちも同様で、いつもとは逆に、チノーが寛大な措置を進言するほどだった。
 「ここは一時の怒りを収められ、穏便な裁きを心がけられてはいかがでしょうか。されば罪人たちも感謝・改悛し、今後我らの役に立つこともあろうかと存じます。あまりに過酷な刑を科せば、これまで伯爵が築いてこられた寛大・仁慈の評判を落とすことにもなりましょう。どうかご再考を。」
 「ならぬ。」しかし、彼の言葉にティルドラスはきっぱりと言い切った。「断っておくが、私は決して一時の怒りで言っているわけではない。本来罰せられるべきではない者たちが取るに足らない理由で罰せられ、逆に罰せられるべき者たちが権力者に阿(おもね)ることで罰を免れるような風潮が許されては、いずれ必ず国に大きな災厄をもたらす。彼らを憐れまぬわけではないが、ここは断固として禍(わざわい)の根を断ち切るべきだろう。」
 それでも罪人たちの中には、ティルドラスの寛大の評判を頼りに、彼自身による裁きを懇願する者が多かった。特に「子爵家への忠義の士」を名乗る者たちの頭目の一人だったヌオー=アブカヤクという人物は獄中からティルドラス宛てに上書まで行い、さらに周囲が驚いたことに、ティルドラスは彼の意見を受け入れ、自身で判決を下すことに同意する。
 裁判は公開の場で、生き残った密告の被害者や獄死者の遺族も傍聴する中で行われた。予想通り被告の多くに死罪が求刑される一方、密告者たちはティルドラスに対して口々に、あるいは慈悲を請い、あるいは無実を訴え、あるいは改悛の言葉を口にするのだった。その中でアブカヤクも、自身のための弁明を蕩々と述べ立てる。
 「伯爵に申し上げたいのは、自分の行いは全て、国を愛し、君に忠を尽くす至誠の心から行ったものということでございます。それを罪に問われるのは得心が行きませぬ。そもそも当時、自分はバグハート家の臣であり、伯爵にお仕えする身ではございませんでした。いったい、臣として仕える君に忠義を尽くしたことが罪でございましょうか。逆に、もしお許しいただけるのであれば、今後は伯爵のもとにあって犬馬の労を尽くすことを厭わぬ所存であります。」
 その弁舌はなかなかのもので、ティルドラスが感心して彼を赦免するのではないかと思った者も少なくなかったという。
 しかし彼の弁明に対してティルドラスは、決して怒りを露わにしたり声を荒げたりはしないまま、ただ静かな、身震いするほどの冷たい声で言い渡す。
 「お前たちが罪に問われているのは、バグハート家のために働いたからでも、私に敵対したからでもない。お前たちは取るに足らない理由をもとに何の罪も犯していない者たちを罪人として密告した。密告された者たちが弁明の機会さえ与えられぬまま投獄され、非道な扱いを受けることもお前たちは知っていた。にもかかわらずお前たちは密告を行い、多くの者たちがそのために罪無くして死ぬことになった。これはいかなる国、いかなる時代にあっても許されるべからざる大罪ではないか?」
 さらにティルドラスは続けたという。――忠心の有無は斟酌(しんしゃく)すべきに非ず。上に諂(へつら)い下を傷(そこな)う者、権をもって弱きを貪る者、衆(しゅう。大勢)をもって寡(か。少人数)を虐げる者、邪(よこしま)をもって正しきを害する者、詐(いつわり)をもって無辜(むこ)を陥れる者、これ全て天下の大賊なり。大賊は死罪。以て赦(ゆる)すべからず。――
 裁判が終わり、証拠不十分で無罪となった数名と命令や脅迫でやむを得ず拷問や偽証に加わったことが酌量されて減刑となった者を残して、死罪の判決を受けた者たちはそのまま刑場へと連行され、次々に首を打たれる。打たれた首は刑場から目抜き通りに運ばれ、そこに設けられた晒し台の上に並べられた。アブカヤクもまた、見苦しいほどに泣き叫びながら刑場の露と消えたという。そして「アブカヤクの弁明」といえば「言葉だけが麗々しい、筋の通らない無益な自己弁護」を意味する故事成語として後世に伝わることになった。
 戦の爪痕、やっと訪れた平和への安堵、街を行き交う市民たちとハッシバル兵との間に漂うそこはかとない緊張感、木々を彩る正月の飾り、その下の晒し台に並ぶ刑死者の生首――。そんな混沌とした風景の中で年が明ける。

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