ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(34)

第七章 魔の森の喜劇(その2)

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 二人の忍びをリーボックのもとに送り出した翌日の早朝、ティルドラスは四十人ほどの護衛兵とともに、キクラスザールに向けてネビルクトンを出発する。
 ティルドラスがキクラスザールに出向くことに、サフィアたちは無頓着だった。彼が国都を離れてくれれば、その間自分たちは気兼ねなく権力を振るうことができる、という思惑もあるのだろう。むしろ「伯爵が即位にあたって恩を受けられたとのことでございますから、折に触れて感謝の意を伝えておくべきかと存じます」と、アーネイラを訪ねることを勧めるような言葉さえかけられたものである。
 彼の出発を見送りに来たのは、弟のナガンと友人のキーユ、ハッシバル家の食客でティルドラスとナガンの学問の師でもあるユーラック=オリディオンの三人だけだった。
 「では行ってくる。後は頼んだ。——師匠も体にお気を付けて。酒はあまり過ごされませぬよう。」出発の準備を整え、馬上から、見送りに来た三人に声をかけるティルドラス。
 「分かっておる。」酒臭い息を吐きながらユーラックは頷く。
 「ぼくも行きたいな。」ナガンは少し不満げだった。「アーネイラにも会いたかったのに。宮殿の儀式なんてつまんないよ。」
 「残念ながら今回は連れて行けない。残っていてくれ。」ティルドラスはかぶりを振る。彼の留守中の公務は、儀礼的なものは全てナガンが代行、伯爵自身の裁可が求められる案件についてはキーユが代わって判断を行い、ルロアの承認を経て決定するという形を取っている。ティルドラスとナガンがそろってネビルクトンを離れるわけには行かないのだ。
 「気をつけてな。長くなるんだろう?」とキーユ。
 「そのつもりだ。」ティルドラスは頷く。
 「?」彼の言葉に首をかしげるチノー。今回のキクラスザールへの旅は、あくまで領内の視察とアーネイラ訪問のためということになっており、本来それほど日数がかかるものではない。
 『キクラスザール行きを口実に、このままバグハート領に向かうことを考えておられるのか。』しかし、彼に従う兵士はわずか四十人。手持ちの食料も、目的地であるツクシュナップに到達するには到底足りない量である。『キクラスザールで野武士たちと合流し、貯蔵してある軍糧とともにバグハート領に向かえば……。だが、それではデューシン将軍に先を越されてしまう。』
 二日後にデューシン率いる軍がネビルクトンを進発し、ツクシュナップへと向かうこととなっている。ネビルクトンからツクシュナップまでは六日の行程。一方、ネビルクトンからキクラスザールを経由してツクシュナップに向かうとなれば少なくとも十二、三日はかかる。野武士たちを率いてティルドラスがツクシュナップに着いた時には、デューシンの軍はすでに市内の略奪を終えてしまっているだろう。最悪の場合、リーボックがユニの命令への不服従や捕虜に対する温情的な姿勢を罪に問われて処刑されていることも考えられる。
 『そもそも、なぜ、この状況で突然にキクラスザール行きを言い出されたのか。何かお考えのようだが……。』
 「出発!」考え込むチノーをよそに、ティルドラスの号令が周囲に響く。彼の声に応じて動き出す隊列。歩行(かち)の兵士たちと並んで馬を進めるティルドラスだったが、ふと、隊列の中に見知った顔があるのに気づいて声をあげる。「おや、お前たちか。」
 「えへへへ。」「まあその、なんです。」「よろしくお願ぇしやす。」彼の言葉に照れたような笑い声を上げたのは、ハカンダル、バーズモン、ケスラーの三人の兵士だった。
 ネビルクトンの街中を離れ、キクラスザールへの街道をしばらく進んだところで、ティルドラスは突然、隊列に停止を命じた。同時に、どこからともなく数人の野武士たちが三、四台の荷車と共に彼らの前に現れる。
 「これより先を急ぐ。必要最低限の装備のみを残して、残りの武具は全て荷車に積みこめ。できるだけ身軽ないでたちで、能(あた)う限り早くキクラスザールに到着するようにせよ。」それまでの呑気な様子とは打って変わった厳しい口調で、ティルドラスは周囲に命令を下す。突然のことに戸惑いながら、慌てて装備を解き、胸当てと剣だけの軽装となって残りの荷物を荷車に積み込む兵士たち。彼らの間を歩き回りながら、ティルドラスはなおも指示を飛ばす。「荷車は別途クイアスモイの渡しに向かい、そこで待機せよ。渡河の手はずを整えて待て。キクラスザールに向かう者は、このあと長旅となる。替えの草鞋(わらじ)を忘れぬように。」
 クイアスモイ——鯉が淵は、キクラスザールより少し川下、下アシルウォック川を隔ててバグハート領と向かい合う小さな渡し場である。『やはりバグハート領に向かうことを考えておられるのだ。だが、どうやってデューシン将軍に先んじるおつもりなのか……。』チノーは考える。
 荷車と別れ、再びキクラスザールへの行軍が始まる。それは、まさに急行という言葉が当てはまる急ぎぶりだった。
 「なんで……こんなに……急いで……るんだろうな……。」息を切らしながらバーズモンが言う。
 「アーネイラさまに早く会いたいんじゃねえか。」とケスラー。
 「あのお姫さまもなあ。いい女なんだが……、腰から下が石じゃどうしようもねえや。」ハカンダルが首を振る。
 道中、あらかじめ用意された宿泊施設があるにもかかわらず、彼らはそれを素通りして先を急ぎ、夜は手近な集落に仮の宿を取る。「何かお望みの料理はございますか?」炊事係を買って出たバーズモンが、料理用の杓子を手にティルドラスに訊ねた。
 「そうだな。」少し考え込むティルドラスだが、やがて微笑しながら言った。「できれば朝食には汁かけ飯を出してほしい。」
 「合点でさ。」笑ってうなずくバーズモン。
 ネビルクトンからキクラスザールまでは、通常であれば五日行程の距離だが、ティルドラスたちはそれを四日で走破し、キクラスザールの行在所(あんざいしょ)で一泊したあと、五日目の早朝に、シュマイナスタイの森、野武士たちの集落へと向かう。
 最初は家族も合わせて百人ほどだったシュマイナスタイの野武士たちも、ティルドラスとダンの跡目争いの中で加わった流民や奴隷商人から買い取られた剣闘士たち、投降した野武士・盗賊団を加えて、今では兵士だけで三百人以上に増えている。彼らの家族も含めると千人以上がこの地に暮らすわけで、森の中の隠れ里のような集落といっても、この時代のミスカムシルとしてはかなり大きな村に匹敵する人口である。そこに商機を求めてやって来る商人や職人などもおり、森の中の集落はそれなりの賑わいを見せていた。
 その村の中に、見慣れぬ者たちの一団がいた。
 派手な仮装や大時代な衣装に身を包んだ者たちが、笛太鼓の囃子(はやし)と共に村の中を練り歩いている。「さあさ、今、行く先々で大評判、ホッホバル一座の公演が明日から始まるよ。これを見逃せば一生の損、お誘い合わせの上ご覧あれ!」
 「ホッホバル? 聞いたことがあるような……。ああ、思い出した。」あの、伯爵家を侮辱した芝居を書いたとして告発され、ティルドラスがそれを握りつぶした旅回りの一座である。

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