ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(5)

第一章 宮廷の日々(その5)

 手近な石に腰掛け、並んで西瓜を食べる二人。「いろいろと大変みたいだな。宮廷の儀礼は煩らわしいし、国は内外に問題山積だ。伯爵になっても良い事なんてないな。」キーユが言う。

 「おまけに最近、借金取りに悩まされている。」ティルドラスはため息をついた。

 ティルドラス自身ではなく、父のフィドル伯爵が遺した借金である。贅沢好きで遊び好きだったフィドル伯爵は、死の直前まで、遊興や宮殿造営の費用を捻出するため各地の商人や豪農から巨額の借入れを続けていた。担保は伯爵家秘蔵の宝玉類である。ところが先日の動乱で国外に亡命したダンが、担保となっていた宝玉類を亡命のための資金として残らず国外に持ち出してしまったため、慌てた債権者たちが宮殿に詰めかけて一斉に返済を求めるという騒ぎになった。

 他の事には口うるさいくせに、摂政のサフィアは「左様な事は伯爵ご本人の問題でございますから。」と素知らぬ顔で、何の手助けもしてくれない。間が悪く、奴隷商人からサクトルバスたちの身柄を買い取った直後で現金の手持ちもなかった。取りあえず代わりの担保を用意するという事で返済を猶予してもらったものの、とにかく金額が大きく、ティルドラスが普段使う馬車や寝台、屏風や楽器類などの調度品、酒蔵の酒から将棋盤まで、身の回りの物が片端から担保に取られる有様だった。

 「どうせ酒は苦手だし楽器はめったに弾かないし、寝台も眠れさえすれば良い。なくなって困るのは馬車くらいのものだが――。」

 「いざとなったら僕の馬車を貸そうか。」キーユは笑った。

 「うん。下手をすると、本当に借りる事になるかもしれない。」真顔でうなずくティルドラス。

 「しかし、どうせ馬車を使うなら、国都にばかりいないで、折を見て領内を回るようにした方がいいんじゃないかな。」近くに落ちていた小枝で何やら目の前の地面を引っかきながら、キーユは続ける。「少なくとも気晴らしにはなるし、領内の事情も分かる。どこかで優れた人物にも出会えるかもしれない。」

 「私もそうしようと思っている。近いうちに、またキクラスザールにも行く予定だ。」

 「あと――」言いかけてキーユは口をつぐみ、地面を黙って指さす。そこにはこう書かれていた。――不満を表に出すな。摂政の手の者が監視している。――

 「………。」表情を動かさないままかすかにうなずき、地面の文字をじっと見つめるティルドラス。

 と、その時、庭園のむこうから華やかな仕着せに身を包んだ宮廷の伝令が姿を現し、こちらに駆け寄りながら「伯爵、お戻り下さい! 摂政がお呼びです!」と叫んだ。

 「分かった、今行く!」答えと同時にティルドラスは腰掛けていた石から立ち上がり、草鞋の紐を結び直すふりをして地面の文字を素早く掃(は)き消す。

 「重臣の方々もお集まりです。お急ぎ下さい。」

 伝令が側までやって来るのを待たず、自分からそちらに歩み寄るティルドラス。彼が消しきれなかった文字の上に立って何気ない素振りで文字を踏み消し、宮殿の方角へと戻っていく二人を見送りながら、キーユは「大変だな。大変だろうが……、何とか乗り切れよ。」とつぶやいた。

 いったん私室に戻って再び窮屈な礼服に身を包み、伝令に先導されてティルドラスは評定の間へと通される。部屋にはすでに、サフィアを始めとする伯爵家の重臣たちが顔をそろえていた。「伯爵、ご出座あぁ!」式部官の声とともに背後の扉が閉じられ、会議が始まる。

 「ミストバル家に隙がございます。今攻め入れば、勝利は疑いありませぬ。」真っ先に口を開いたのは伯国の筆頭将軍であるガルキンだった。ハッシバル家譜代の名家の出身で今年四十一歳。美男子の上に立ち居振る舞いも優雅で、戦場よりむしろ宮廷内での虚々実々の駆け引きに長けているというもっぱらの評判であり、以前からサフィアとの間に醜聞が囁かれている人物でもある。先代・フィドル伯爵の代から長らく筆頭将軍の地位にあるものの、今まで軍功らしい軍功がなく、内心かなり焦っているらしいという噂はティルドラスも耳にしていた。

 続いて同席していたガルキンの部下が立ち上がり、状況の詳しい説明を始める。

 事の始まりはデクター家の動きだった。ハッシバル家とミストバル家の戦いに乗じ、ティルドラスを伯爵の位に就ける事を口実にティルムレチスに迫ったデクター軍。しかし結局ティルドラスが自力で伯爵の位に就いたため、介入の口実を失って帰国せざるを得なくなった。

 このまま手ぶらで帰ったのではいかにもばつが悪い――と、指揮官であるカーベック=イフワールは考えたのだろう。急遽(きゅうきょ)矛先を変え、同じくティルムレチスから本国に戻る途中だった、シルヴェストル=フォーケン率いるミストバル軍の背後を襲ったのである。

 ハッシバル家との戦いで多くの損害を出し、疲労困憊(こんぱい)したミストバル軍と、数も多く精強で鳴る新手のデクター軍。しかも追い討ちの奇襲である。勝負は一方的につき、総崩れになって自国に逃げ込む敵を追って、デクター軍はミストバル領内へとなだれ込む。

 イフワールのもくろみでは、敵の体勢が整わぬうちに付近の小邑(しょうゆう)をいくつか占領し、撤退と引き替えに何らかの見返りを求めるつもりだったらしい。だが、デクター軍の侵攻を受け、ミストバル家の主、アブハザーン=ミストバル侯爵はただちに総力を挙げての迎撃を命じた。一方のデクター家の方でもイフワールの独断専行に引きずられる形で兵力を増派、戦いは当初の小規模な局地戦から、国境の広い範囲を巻き込んだ熾烈なものとなる。

 最終的にはミストバル家が東方の守りの要であるメンシュバーンの城でデクター軍を撃退し、辛うじて勝利したものの、この戦いでミストバル軍の主力がデクター家との国境地帯に釘付けにされ、ハッシバル家方面に対する防備が手薄になっている。「この機を逸してはなりませぬ。」部下の傍らからガルキンが口をはさんだ。

 しかも、ハッシバル家が軍を動かした場合、逆に隙を衝かれる危険がある二つの国――フォージャー候国とトッツガー公国の間に戦端が開かれる気配があり、背後を襲われる心配もないという。亡命したダンが隣国であるカイガー家、バグハート家への侵攻に備えて兵をかき集めたため兵力も不足はない。「これは、天がミストバル家の領土をハッシバル家に与えんとするのでございます!」フォンニタイが甲高い声で叫ぶ。「天の与えるものを取らぬは罪! 直ちに兵を発してミストバル家を撃ち破り、先日の恨みを晴らし、国を守って散った兵士の無念を雪(そそ)がねばなりませぬ!」

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