ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(3)

第一章 宮廷の日々(その3)

 重臣たちに異存はない。自分たちと同様ダンとメルリアンに従った過去を持つサフィアが権力の座に就いたことで、一時とはいえティルドラスやルロアに敵対した事を咎められる心配もなくなった。ほとんど全ての重臣がフィドル伯爵時代からの地位に留まり、中には以前より高い地位や俸禄を与えられた者さえいる。例えば、ティルドラスとダンの後継争いの中、最後まで日和見を決め込んで動かなかった筆頭将軍ヴァリー=ガルキンの行動は、いつの間にか「ダンの脅しにも屈せずティルドラスに至誠を尽くした忠義の行い」ということになり、土壇場でダンを裏切ってティルドラスの陣営に加わった第二軍上将軍のギー=デューシンと共に、数々の褒美と栄誉を与えられた。ダンの傍らにあって策謀を巡らせていたヒッツ=ネイカーも、免職になることもなく尚書――秘書官の地位に留まっているばかりか、伯爵家の尚書令――主席秘書官のゼミン=アルハズルが老齢で任に堪えないという理由で、サフィアの命により彼の職務を代行し、事実上の尚書令として、むしろダンの時代以上の権勢を振るうこととなった。ダンの即位をティンガル王家に報告する使者としてケーシに向かい、ティルムレチスの戦いで足止めを食って結局任を果たせなかったヨシュノール=フォンニタイも、何食わぬ顔でネビルクトンに戻り、重臣待遇の客卿としてサフィアの取り巻きに加わっている。

 逆に、以前からサフィアと折り合いの悪かった第三軍上将軍のヴァンダーエム=グスカは、孤立無援の中で要衝ティルムレチスをミストバル軍の侵攻から守り抜いた功にもかかわらず、「兵士の損害が多く、最後は伯爵御自らの出陣を請わねばならなかった」という事を理由に「功罪半ばする」とされ、何の恩賞も与えられずじまいだった。動乱の間にティルドラスの傍らにあって彼のために働いた者たちも、チノーが尚書の末席に加えられた程度で、ろくな地位も褒美も与えられないまま放置されている。ダンの命令でティルドラスとチノーを捕らえに来て一緒にシュマイナスタイの森に迷い込み、以来、終始彼と行動を共にしたハカンダル、バーズモン、ケスラーの三人の兵士に至っては「本来は死罪をもって罰するところなれど、お情けをもって許しつかわす。伯爵の温情に感謝いたし、心を入れ替えて忠勤に励むよう。」と、まるで「命が助かっただけでも有り難く思え」と言わんばかりのことを言われて、相変わらず兵営で、横流しされた兵糧の代わりに芋や木の実の薄い粥を食べる生活をしているという。

 ティルドラスもそれに甘んじていたわけではない。動乱の間――いや、もっと以前から見聞きしていた不正の数々や民の困窮を何とかせねばという気持ちは強かったのである。だが、全ての権力はサフィアや彼女を取り巻く重臣たちの手に握られており、即位以来、彼が行おうとした人事や賞罰、折を見ては周囲に調査や検討を命じた数々の施策も、まともに取り上げてすらもらえない。

 「質を落として改鋳した銅銭の発行が物価を上げ、庶民を苦しめることになっている。やめるべきではないか。」

 ――伯爵家の財政は厳しく、新しい銅銭の発行はやむを得ない。何より大切なのは国家の安定であり、民はそれを知って堪え忍ぶべきである。――

 「兵糧の横流しが日常的に行われている。防止策を取ると共に、過去の実態について調査を行い、不正を行った者を処罰せよ。」

 ――調べたが、左様な事実はない。伯爵家を貶める事を企む不逞の輩どもの流言であろう。特に対処は必要ないと思われる。――

 「剣闘士の戦いは、人の死を気晴らしのために弄(もてあそ)ぶ野蛮で残酷な見せ物である。法をもって禁ぜよ。」

 ――自らの命をかけた正々堂々の戦いは若者たちに勇気と自己犠牲を教えるものであり、教育上も意義は大きい。また、流されるのは所詮卑しい身分の者の血であり、伯爵のような高貴のお方が心を悩まされる事ではない。――

 最後の剣闘士の件は、サクトルバスをいたく失望させたらしい。しかも、そのサクトルバス自身が、一時、かなり危険な立場に立たされていたのである。

 ティルドラスの即位直後、論功行賞と平行して、彼に味方した野武士たちの処分を決める裁判も行われていた。裁判と言っても、もともと彼らが大して悪いことをしていたわけではない。残酷な扱いに耐えかねて逃亡し、生きるために徒党を組んで盗みを重ねていただけのこと。そもそも、既成事実化しているとはいえ、本来ミスカムシルでは人身売買や奴隷の所有は違法である。おそらく全員が功により罪を免ぜられ、売られてきた者たちも奴隷の身分から解放されて故郷に帰ることができるはず――。ティルドラスは楽観していた。

 だが、彼らに下された判決は、予想を裏切るものだった。

 伯爵の即位を助けた功により、野武士たちの過去の罪――徒党を組んで伯爵家の威徳に服さず、逃亡奴隷や脱走兵を匿(かくま)い、官庫や軍の兵糧庫から食料を盗んだことは許す。ただしサクトルバスを始めとする逃亡剣闘士たちの所有者が彼らに対する所有権を失ったわけではないので、逃亡剣闘士たちは本来の持ち主である奴隷商人のもとに戻るものとする……。後から知ったところでは、奴隷商人たちが密かに法官に多額の金品を贈り、自分たちに有利な判決が出るよう働きかけていたらしい。

 判決の内容にティルドラスは驚く。戻れと言っても、彼らを持ち主のもとに帰せば、間違いなく他の剣闘士たちへの見せしめとして殺されてしまう。結局、交渉の末、ティルドラスが自身の内帑金(ないどきん)でサクトルバスと他の逃亡剣闘士たちの身柄を買い受けるということで話はまとまったが、彼らを助けたいティルドラスの足元を見て、奴隷商人は思い切り値段をふっかける。さすがに腹が立ったものの、サクトルバスたちを救うためにはやむを得ない。言われるままの金額を払い、さらに行きがかり上(サクトルバスの必死の懇願もあって)、奴隷商人のもとにいた他の剣闘士たちも買い取ることとなった。手持ちの商品が残らず高値で売れたばかりか、逃げた剣闘士たちの代金まで回収できた奴隷商人は、思わぬ大儲けにほくほくしながらハッシバル領を去り、以後の生涯を何不自由なく過ごしたという。「この事を鑑(かんが)みれば、即ち、天が義人を救い悪人を罰すという世俗の言葉が偽りであることが知れよう。」と、史家ソン=シルバスは著書『ミスカムシル史大鑑』に収録されたサクトルバスの伝記の中で憤慨している。

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