ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(7)

第二章 骨の丘(その1)

 当初の進軍は順調の一言だった。

 ティルムレチスを進発したハッシバル軍は、国境のわずかな守備兵を蹴散らしてミストバル領内深く侵攻する。道筋にある村々はハッシバル軍によってたちまち蹂躙され、兵士たちによる略奪・暴行の末に火をかけて焼き払われた。ほとんど抵抗らしい抵抗にも出会わぬまま、七日の後、ハッシバル軍は沼沢地の中にあるボーンヒル――骨の丘という丘陵の近くにさしかかる。

 この丘の上にはミストバル軍によって小さな砦が築かれており、周辺一帯への抑えとして戦略上の要地を占めていた。しかしデクター軍との戦いのため大部分の兵力が他に回され、今は四百あまりの小勢が砦を守っているだけだという。

 「砦の守将は誰だ。」大休止の間に開かれた軍議の席で、部下に向かってガルキンは尋ねた。

 「はっ、捕虜の話では、ペネラ=ノイという女だそうでございます。」

 「女?」

 「はあ。それもまだ三十にもなっておらぬそうで。何でも、砦の兵を率いてデクター家との戦いに向かった本来の守将に代わり、臨時に砦の指揮を任されておるということですが、どの道、我らの敵ではございますまい。」

 「ふん!」ガルキンは侮蔑の表情も露わに言った。「三十にもならぬ、しかも女に、このような要地の守備を任せねばならぬとはミストバル家も長くはないな。よし、軍をボーンヒルに向けろ。ここまで手応えのない戦ばかりで退屈していたところだ。一気にボーンヒルの砦を踏み破ってわが軍の威勢を示してやる。なに、たかが女に率いられたわずか四百の小勢。一日で砦もろとも叩きつぶしてみせるわ。『戦端ヲ開クニ当タリテハ、マズ村々ヲ焼キ城ヲ屠(ほふ)リテ敵ニ我ガ威ヲ示スベシ』というのが私の学んだクロスキンの兵法書の教えである。」

 「いや、お勇ましい。そもそも将軍たる方は斯(か)くあらねばなりませぬ。」周囲の者たちがお世辞を言う。「おっしゃる通りでございます。ここは村を亡ぼし城を破壊し尽くし、敵に我が軍の恐ろしさを骨の随まで味わわせるべきでしょう。」

 「しかし将軍、」一人の若い校尉(こうい。中隊長級の指揮官)が声をあげた。彼の名はタスカ=コルダール。ガルキン一族と並ぶハッシバル家譜代の家柄の出で、今年二十一歳の若者である。これまでにも兵糧の輸送や山賊討伐などで実績は上げていたものの、本格的な戦闘は今回が初陣となる。「ここまでのわが軍の行いを見ますと、威を示すと言うより略奪暴行を事としながら進んできたようにしか思えません。村々を焼いて威を奮うより、むしろ恩徳を施して住民を懐(なつ)けることを考えるべきなのでは? 今のままでは、たとえ周辺の地を我が国に併せたとしても、土地は荒れ、住民の信頼は得られず、のちのち面倒なこととなるのは目に見えております。何とぞお考え直し下さい。」

 「………。」タスカの言葉に不興げに顔をしかめるガルキン。

 「コルダール! お前は左様なことを申して、わが軍の士気を鈍らせる気か!」彼に代わって、年かさの幕僚たちが咎めるような口調で言った。「我が国の体面を傷つける気か!」「良いか、戦いに際して敵の村を焼き城を屠るは戦の定法(じょうほう)、また、略奪は兵士たちへの褒美ではないか。それが戦というものなのだ。戦の何たるかを知らぬお主のような青二才が、将軍の仰ることに余計な口を挟むでない。」

 「しかし、私が思いますに――」何か言おうとするタスカを、今度はガルキンが乱暴に遮る。

 「もう良い! 控えよ、コルダール! ……では、当初の方針通り、まず、全軍をもってボーンヒルの砦を攻め落とし、周囲の村落を焼き払って我が軍の威を示した後にフェロスーク方面に軍を進めることとする。これにて軍議を終わる。ボーンヒル攻略に向け、各自持ち場に戻るよう。」

 「はっ!」うなずく部下たち。

 ハッシバル軍迫るの報に、ボーンヒルのミストバル軍は浮き足立った。「とても勝ち目はございません。敵は三千、しかも選りすぐりの精兵揃い。対してわが軍の兵はわずか四百あまり。おまけにこの丘は砦と言っても柵は低く堀は浅く、守りは決して固くはありませぬ。ここは一旦砦を捨てて後方へ退き、再起を賭けた方がよろしいのではないでしょうか。」老参謀の一人が守将のペネラ=ノイにおずおずと進言する。

 老参謀、と言うより、彼女の周囲の幕僚は老人ばかりだった。先日のティルムレチス攻防戦でペネラとことごとく意見を対立させ、挙げ句に彼女を左遷してこの砦の指揮官へと追いやった前の上官――侯国筆頭将軍のシルヴェストル=フォーケンが、それでも気が収まらなかったのか、とうに第一線を退いた毒にも薬にもならないような老人ばかりを集めて彼女の麾下に付けたのである。もっともペネラ自身はそれを気にする風もなく、むしろ、周囲から掣肘(せいちゅう)されず自由に手腕を発揮する機会を与えられたことを喜んでいる様子さえあった。

 「あら、砦を捨てて逃げて、相手から逃げ切れるとでもお思いなのですか?」進言を受けたペネラは澄ました顔で言う。「この砦の四百人は全員歩兵。一方のハッシバル軍のうち五、六百は騎兵。今から逃げても、騎兵の追撃を受けて追いつかれてしまいます。逃げる敵を追い討ちにするほど楽な戦はない。たちまち壊滅させられてしまうでしょう。」

 「とはいえ、砦に籠もって戦ったとしても、支え切れる見通しはございませぬが……。」

 「そうね。まず一日もてば良い方だと思います。」ペネラは相変わらず落ち着き払っている。「だから、砦の外でハッシバル軍を叩き潰すしか方法はないでしょうね。」

 「砦の外で!」驚く部下たち。「しかし敵の兵力はわが軍の七倍以上、まともに野戦を挑んでも勝てる相手では……。」

 「むろん、正面からぶつかって勝てるとは私も思っていません。忍びの者の報告から考えて、おそらくハッシバル軍がこの地に到着するのは明日の夕方。そして明後日の総攻撃に備えて丘の麓で野営に入るでしょう。幸い明日は月もなし。闇に乗じて、野営しているハッシバル軍に夜襲をかけます。」

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