ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(12)

第三章 フィリオの細流(その2)

 「かほどの厚遇をいただき、何とお礼を申したら良いか分かりませぬ。」コダーイを家に招じ入れ、茶を勧めながら、彼に深く頭を下げるオーエン。

 「いや、気に入っていただけたようで大いに結構。」コダーイは鷹揚にうなずき、続いて傍らのセルキーナの方に目をやる。「そちらはご夫人ですかな?」

 「……いや、侍女です。」少し考え込んだあと、オーエンは少しためらいながら答えた。

 「左様ですか。して、お名前は。」

 「セルキーナ=チノーと申します。」コダーイに向かって丁寧に会釈するセルキーナ。

 「チノー……。はて、ティルドラス伯爵の側近に同じ姓の方がおられたように記憶しているが、ご親戚でしょうか?」

 「………。」妹だと言って良いのか分からず、困ったように顔を見合わせるオーエンとセルキーナ。

 「失礼つかまつった。いろいろと事情もおありでしょう。」困惑する二人の様子に、コダーイは急いで話題を変える。「本日参ったのは他でもない、あなたのご意見を伺いたいと思いましてな。」

 そのあとオーエンに、軍事や天下の情勢への分析などを二、三尋ねたあと、彼の答えに満足した面持ちで、コダーイは来たときと同じように飄然と去って行く。「オーエンどの、ご活躍、期待しておりますぞ。」別れ際に、オーエンに向かって笑いかけながら彼は言った。

 歩み去るコダーイの後ろ姿を、オーエンは少し放心したような表情で見送る。天下三傑の一人として諸国に名を知られるコダーイ。その彼が、自分に期待しているという。本心なのか。あるいは単なるお世辞に過ぎないのか……。

 「侍女、なのでしょうか。」声をかけられてオーエンは我に返る。振り向くと、傍らからセルキーナが、少々不満げな表情で彼を見上げていた。

 「荷ほどきをするぞ。」ごまかすような口調で言い、オーエンは家の中へと戻っていく。

 コダーイの「期待」は、先の長い話ではなく、近い将来を見据えてのことだったらしい。それからいくらも経たないうちに、フォージャー家とトッツガー家との間に戦端が開かれることになったのである。

 発端は、両国の国境地帯を流れる、地図にも記されていないような小さな川の流域で、水を巡る村同士の争いが起きたことだった。旱魃のため稲の生育が悪い上流のトッツガー領のある村が、水のほとんどが自村の水田に流れ込むよう川をせき止める堤を作った。ところが、自村の水田に水が来なくなった下流のフォージャー領の村がこれに反発、夜の間にこっそり国境を越えてトッツガー領に侵入し、堤を壊して再び水が下流に流れるようにした。上流の村は再び堤を築き、さらに見張りを立てて下流の村の来襲に備える。これに対して下流の村は、付近のフォージャー領の村からも応援を呼んで再び堤を破壊、その際の衝突で双方に数人の死者が出た。この騒ぎの中で近くに駐屯するトッツガー家の守備隊が上流の村に加勢し、堤を破壊した下流の村を国境を越えて襲撃。堤の破壊を主導した村長の家を焼き払い、周辺の田畑をさんざんに荒らして引き上げた。すると今度はフォージャー軍がトッツガー領に侵入、事の発端となった上流の村を徹底的に略奪・破壊する。

 報復の連鎖の中で事は大きくなり、ついに両国は外交関係を断絶、大規模な軍事衝突が不可避の情勢となる。

 そして今、トッツガー公国の国都・アシュアッカでは、フォージャー領へと派遣される遠征軍の準備が整ったことが、公爵・イエーツ=トッツガーに報告されていた。

 イエーツはこの年五十五歳。「若年より小国の主としてあらゆる辛酸を嘗め、温情ある信義の人との声が高かった。しかしその後、大国の主となって天下に覇を唱えるや、一転して策謀・冷厳を事とし、自らに並ぶ者は陥れ、自らより弱き者は貪り、ために、天下の諸国は彼を恐れ憚(はばか)った。」「肉親・旧知には情が篤く、常に心を配り恩愛を施す一方、他国・新参の者には猜疑の心が強く、いかなる至誠・忠勤を示されようとも決して心を許すことがなかった。」「イエーツが天下に覇を唱えるに至り、国は他家の侵掠(しんりゃく)を受けることは希で、草賊(そうぞく)・土匪(どひ)の類(たぐい)も数を減じたが、法は峻厳にして租税・労役は重く、領民はこれに苦しむことが多かった。イエーツ自身、民はただ生かして国に尽くさしむるのみと平素より公言し、臣下の多くもこれに倣(なら)って百姓(ひゃくせい。一般庶民)を憐(あわ)れむ事がなかった。」――。ソン=シルバスは『ミスカムシル史大鑑』の中で、彼の人となりをそう記している。

 彼の前に跪くのは、トッツガー公国将軍筆頭のトゥーン=カークトン。イエーツの母方の従弟で、個人的武勇・兵の指揮能力ともに諸侯の間に名高く、イエーツからの信頼も厚い。「公爵、」跪いたままの姿勢で彼は口を開いた。「出兵の準備、全て整い、後は公爵の下知(げち)を待つばかりにございます。」

 彼の言葉にイエーツはうなずく。「よし。ただちにフォージャー領に向けて進発せよ。」

 「御意のままに。」頭を下げるトゥーン。「なお、兵士への褒美についてでございますが……。」

 「いつもの通りである。略奪は随意。存分にせよ。それをもって恩賞に代えるものとする。」

 「はっ。」

 「一言念を押しておく。」イエーツはさらに言葉を継いだ。「此度(こたび)の戦いは、領土を併せるためではない。我が国の威を奮い、敵の心胆を寒からしめ、二度と他国に我が国を侮らせぬためのもの。したがって情け容赦は無用である。ただ焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くせ。」

 「ははっ!」トゥーンはもう一度深く頭を下げると、一礼して彼の前を退いた。それを見送ってから、イエーツはきびすを返し、奥へと入っていく。

 奥に入ると、一人の少女がそこに居住まいを正して座っており、イエーツの姿に顔を上げた。

 「ミレニアか。」

 「父上、」ミレニアと呼ばれた少女は言う。「お諫めに参りました。」

 ミレニア=トッツガー。今年十八になるイエーツの末娘で、そして――ティルドラスのかつての婚約者だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?