「崇拝しないこと」が実は一番難しい

ある方と話をしていてこんな話題になりました。生きていく上で一番難しいのは「何かを崇拝しないこと」かもしれないね、という話。以前にこの世のしくみのベースは宗教・思想という記事を書いたことがありますが、いかに世の中が宗教や思想によって支配され操作されているのかということを日々感じながら生きています。人生辛いことが多すぎて、つい宗教や特定の思想や人物にすがりついてしまいたくなる気持ちはわかりますし、私も心が弱っているときほど何かに依存したくなる傾向はあるなぁと感じます。だからこそ、「何かを崇拝しないこと」はとても難しく感じるし、本当に精神的に自立していなければ成しえないことだろうと思います。

この資本主義の世の中では特に、信者を集めることがビジネスにつながるため、人を信じさせる力、盲信させる力が強い人ほど、カリスマ的な成功者として讃えられたりする傾向もあるように思います。まともな感覚を持っている人であれば一発でアヤシイだろうと思うようなモノや人でさえ、言い方や見せ方が上手ければ信じこんでしまう信者も多数現れますからね。私には、「信者をかこってうまいこと言って自分が儲かればいい、カモが集まってくればいい」という発想は微塵もないので、そういったビジネスをしている人の神経が全く理解できないのですが、世の中的には信者ビジネスに誘導するような思想があふれているように見えます。

ネットワークビジネス系もかなり崇拝者が多い印象です。カリスマ的な人物には必ず取り巻きみたいな人がいたりします。同じ思想の人でグループ的なものを作る傾向も多いと感じます。私はしがらみとか馴れ合いとかをめんどくさいと感じてしまうタイプなので、どこの組織や団体にも所属したくないなぁと思っていますが、孤立を恐れるのが人間の性なので、同じ思想の人で群れたくなる気持ちもわかります。どうしても群れてしまうと宗教チックになってしまって、ピラミッド化(権力争い)したり内部もめがあったりして、「もう勘弁して本当めんどくさい…」という感じになるのは目に見えています(笑)。

崇拝したり盲信したりするのってすごい楽なんですよね。自分の頭で考えなくていいし、右にならえ、でいいわけですからね。あくまで自分は自分の中心にいて、いろんな人の考えや情報を見聞きして、いいなとか合うなと思ったものは取り入れれば良いし、同じ人の言うことであっても「この意見は良いけど、あの件はちょっと違うな」と思うことがあるのが普通です。あまり一つの考えに固執しすぎると、物事の本質がわからなくなってしまうことが多いので、柔軟でフラットな視点で他人の意見や情報に向き合っていくのが好ましいのではないかなと思っています。

誰しも崇拝や盲信は良くないこと(本質的ではない)ということはうすうすわかってはいるのですが、どうしても心が弱っていたり、巧みな言葉に惑わされたりして、つけこまれてしまうこともあります。私の感覚では、何も崇拝していない方というのは非常に信頼できるし、考え方が柔軟なので本当に思ったことを言えるなと思ったりします。何かを信じ込んでいる人には(傷つけたらいけないし揉めるのめんどくさいし)本音を言えなかったりすることもありますからね。いろんな人の考えや情報に触れるのはとても楽しく刺激的で、上手く付き合えば自分の世界を無限に深く広げることもできます。そのためにも自分の価値観、思想、生き方や判断基準を固めていくことがとても大切で、世間の風潮や特定の宗教や思想にも一定の距離を置いて付き合っていく姿勢が好ましいのかなと思います。私自身も依存傾向があるので、「それは借り物の思想ではないか?自分の価値観や考えを持っているか?」と自問しながら、周囲の意見や情報、思想に向き合っていこうと思います。

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