「生きている」という実感が得られる生き方

7月は「自発的」という単語がキーワードとなっており、漠然と流されて生きる人生の無意味さという記事、自発的に学ぶからこそ知恵がつくという記事にも似たようなテーマのことを書きました。心の友と話す中でも、「いかに今までの自分が自発的に生きていなかったか、精神的に自立できていなかったか」という話になることが多く、お互いに気づきを深めている日々です。周囲に生きる人の生き様を見て気づくことも多く、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉が実感を伴って胸に染みます。

よく「レールの敷かれた人生」という言葉を耳にすることがありますが、これは良い意味で使われる言葉ではありませんよね。いわゆる「レールの敷かれた人生」というのは、名門大学に入って(コネで)大企業に就職して…とか実家の病院を継いで…とか、そういったわかりやすく安定していそうな、安泰に見える人生を(親の言いなりになりつつ、親に誘導されつつ)歩むということかと思います。それを見て「いいな、楽そうで羨ましい」と思う人もいれば、「なんてつまらない人生なんだ、気の毒」と思う人もいると思います。私の考えでは、表面的にその人がどう生きたかというのはあまり関係がなくて、その方が自発的に、自分で決めたことで「生きている」という実感を持って生きているならそれでいいんじゃない、と思います。誰かの言いなりや世間体を気にしてではなく、本人が納得して自分でそうしようと決めて大企業に就職したり、実家の病院を継いだりしているのならば、それはとても幸せなことだろうなと感じます。

大事なのはいわゆる「レールに敷かれた人生」を歩むかどうかではなく、本人の気持ちはどうなのか、納得感や充実感があるのか、自発的に自分の意志で決めたことなのか、ということなのだと思っています。心の友に以前相談された悩みがあります(公開OK了承)。自分で決めたことではなくやらされたことをしている時や、自分が好きになったわけではない人とデートしている時などに、上の空になってしまって集中できなかったり、睡魔に襲われることがあるとのことでした。その話をしていたのは昨年の後半ですが、今になって他の事例も重なり「自発的に決めたことじゃなかったから集中できなかった、こんな生き方では死ぬ時に何も残らないかもしれない」と気づいたと言ってくれて、これからは自発的に行動しよう、決断しようという気持ちを新たにしたそうです。友人もこの1年でまるっきり別人のように考え方や生き方が変わっていっていて、以前よりも自分への自信が増したように思うと言っていました。私自身もとても嬉しく思っています。

私がnoteを始めた当初から一番言いたかったことは、この記事で書いたようなことなのかもしれないな、と思います。書き始めたころは大企業に勤める、組織の奴隷になる…そういう生き方でいいの?と問いかけていたつもりでしたが、働き方はどうでもよくて、「その生き方は自発的に、能動的に自分で決めたことなのか、納得しているのか、充実して幸せを感じられているのか?」ということが一番大事なのだなと今は思っています。そういう生き方をしている時は、「生きている」という実感をものすごく感じられるものだと思います。それは今の私の実感として感じる部分でもあり、経済的には自立していないけれど、自分でこれでいいんだと思って納得して生きているので、精神的には自立できるようになってきたなと感じています。人生は長いようで短く、他人に流され、誰かにやらされて生きる時間は一分一秒でももったいないと感じます。「自分のことは自分で決める」、「自分の人生の責任は自分で取る」…自発的に生きることが、何よりも「生きている」充実感を増す人生のカギになるのではないかと思います。

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