なんでも「わかろう」とする苦しみ

今に限ったことではないですが、「理由はわからないけど、なんとなく○○してしまう」ということってよくあって、ほとんど毎日その繰り返しなのですが、理由なんて私の頭で考えてわからなくて当然なのに「わかろう」としてしまうことが多く、それが苦しみを生んでいることに気づきました。わからないものをわからないままにしておけば良いものを、頭のエゴは理由付けしたがるんですよね。ジャッジしたがると言いますか、「こうすると●●なるだろうから△△したんだ」みたいな因果関係や文脈を作ろうとします。

なんでもかんでも「わかろう」とするのは人間のエゴだなぁとつくづく思います。今までを振り返ってみても、なんだかよくわからないけどこうしてきた、ということの連続で成り立っていますし、頭で設定した因果関係や文脈通りに進んだ試しなんてないし、あれこれ計算したところでその通りにならないことの方が多いわけです。「経営戦略」みたいなものだって、今までの統計とか実績みたいなものから予測して組み立てるのでしょうが、所詮人間の頭で考えることなど限界があって、消費者を舐めたような「こういう商品をこう売れば売れるだろう」的な戦略なんかは思惑が外れることも多々あります。もちろんきちんとしたマーケティング理論もあるでしょうし、頭で考えたことすべてが的外れというわけではないのですが、人間の考えることには限界があって、エゴを手放すほど、もっとありえないようなミラクルが起きたりするものです。

大いなる宇宙の流れへの信頼感が増してきた話をここ一週間くらい書いてきました。以前よりもむやみやたらと不安になることはないし、なんとかなるだろう、という感覚は強まっています。ただ、今も時たま「なんで私今こんなことしてるんだろう?」という考えがよぎることはあって、自分では全く理由がわからないけどそうしてしまう、ということに対して、自分で何らかの意味づけをしなければ気が済まない心理状況を日々経験しています。理由や意味がわからないならそのままにしておけばいいものの、「今こういうことをしたがるのは逃げなのだろうか?」「遠回りをしているんじゃないか?」とか、エゴはあーだこーだ騒ぐわけです。魂とつながるハートの声に従って生きるようになっているのは確かなんだから、その欲求に忠実に生きることを素直に認めれば良いものの、まだ頭で作る文脈に乗せたい自分がいるのですね。

わからないものをわからないと認められればどんなに良いか。それが真に宇宙にお任せで、ジャッジがない状態だと思います。頭で作る因果関係なんて本当にあてにならず、あの時やってたこと、当時は意味わからなかったけど今やっとわかった!みたいなことが数十年後にあったりするわけです。長~~い目で見れば必要なプロセスだったとしても、数か月、数年単位ではわかるはずもないことが多いです。スピ系宇宙の法則系でもよく言いますが、私たちには「今ここ」しかなく、すべては「今この瞬間」の連続であるにもかかわらず、過去と未来の二元論に挟まれている感覚がどうしてもあるし、過去の単なる「記憶」をパターン化して潜在意識に刻み込んでいます。そのパターンがある限り何度も同じ因果関係や文脈を作って解釈しようとしてしまって、パターン通りの人生をまた歩むのですね。

エゴが「わかる」と感じるということはすなわち、今までに蓄積されたパターンの文脈に乗ったことを意味し、「わかってしまう=パターンの餌食」ということにもなります。わからないものはわからないのだからそのままにしておこう、とにかくハートの声に従ってやりたいことをやっていこう、と頭では重々承知なのですが、気づくとパターンにはまっていることを自覚する、そんな繰り返しなのです。わからないものはわからないままにしておく、ということが究極的に「今に生きる」ということであり、宇宙や自分を信頼し委ねるという姿勢なのだなと痛感しました。こういう気づきは昨日寝て今日突然覚醒した!みたいなものではなく、日々少しずつの変化が気づいたら大きな変化になっていた、という形でしか起こらないもの。毎日少しずつ、宇宙と自分への信頼を高めていけたらと思います。

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