「待つ」こと=自分を信じる過程

「早く、早く」が招く無数の悲劇と同じような内容なのですが、今の私が一番苦しんでいるエゴの肥大はこの「早く○○になってほしい」という気持ちです。「待ち」の苦しみ。特に、親にお金を援助してもらうようになって、早く収入を安定させてお金を返したいし、自立したいという気持ちが高まってきました。一日一日の変化は大きいですが、それでも数か月、数年のスパンで物事というのは動いていくものですよね。

何をするにしても、一番大切なことは「意識」や「心構え」といった、目に見えない認識の領域にあると思っていて、どこからプロとか、何ができたらお金をもらっても良い、とかっていうのは、完全に自己認識の世界でしかありません。自分がプロと思ったらプロなわけです。もちろん前提となる知識や経験というのはその自己認識の助けにはなるでしょうが、いつまでも「まだまだお金はもらえない」と思っていては、プロにはなれませんよね。

また自分語りの記事になりますが、今の私の課題はそこで、傍から見たら「それだけ勉強して詳しいんだからプロとしてやればいいじゃん」って思える分野もあるかもしれません。私は幸いにして、素晴らしいと思える、尊敬できる恩師、メンターの方々がたくさんいらっしゃいます。この辺りのことは複数の師を持つことの大切さにも少し書いています。周りの人が素晴らしすぎて、絶対に敵わない、しかしながら、あのくらいの領域を目指したいからこそ、自分に不足感を感じてしまって、プロを名乗るなんておこがましいかな、と思ったりしてしまうのです。どうしても「比較」の軸が幅を利かせていて、劣等感と優越感のはざまで常に苦悩するエゴがあります。

このnoteやもう一つのサイトのブログもまめに更新して、おかげさまで少しずつ読んでくださる方も増えてきて嬉しい限りです。「早くアクセス数アップしないかな」というのは、ブログを書いている人は誰もが一度は思うことだと思いますが、私にもそういう感覚はあります。と、同時に、もし大きな資本や勢力がバックにあって、何らかの力で一瞬でアクセス数がアップできるとしたら、私はそれを望むのだろうか?と思うと、いや、それは嫌だな、とも思うのです。毎日毎日、日々の変化は少ないけれど、「自力で成し遂げた達成感」も望んでいて、それは一瞬で達成してはつまらぬもので、ある程度の時間というプロセスが必要なことなのです。それは、私の中に常に内包される矛盾です。

有名な、今ブレイクしている方の数年前の過去記事などを見てみると、発言の感じが今と違うなぁと思うことがあります。誰しも始めたばかりの頃は、自信満々で炎上上等、先生的な発言をすることはないようで、毎日継続して、少しずつ自信をつけた上で、その方の今があるのだなぁということを思います。

人生というのは、どこまでいってもプロセス。「待つ」ということ自体、「結果」ありきの行為です。必ず機が熟すのを信じて待つ、という感覚が今の私にはありますが、「待つ」ことが苦しみである間は、自分や宇宙を信じられていないのだなということを感じます。エゴは「早く早く」とせかすけれど、物事はすべて最高のタイミングで起こっていて、今それが起こることに偶然はなく意味があるということ。今ちょうど、絶対的な自分や宇宙への信頼を腑に落とすことと、「早く早く」が良いのだというエゴの葛藤が自分の中にあるのを感じていて、せめぎ合いをしているようです。疑い、不安、自己否定などのいらない価値観、思い込みを外に出したくて仕方がない感じ。そして、その苦悩や悩みがそんなに長くは続かないことも同時にわかっています。来年の自分がこの記事を読んだら、「去年はつまんないことで悩んでたな~」なんて笑い飛ばしていることでしょうね。

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