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短編小説「夜のプールと古代生物」

「夜のプールと古代生物」村崎懐炉

高校の構内にあるプールに真夜中、僕たちは忍び込んだ。
防犯用の青いLEDライトが水面に反射して揺れていた。

「博物館に行くのが好きだったんだ。」
と僕は言った。
博物館の階段の下には人造池が造られていた。そこには水が張られて鯉が泳いでいた。もしかしたら水草も生えていたかもしれない。
僕の記憶が曖昧なのはその場所の照明がいつも消されていて、人造池は影の落ちた黒い水たまりでしかなかったからだ。

時折見える錦鯉の背中以外にどのような生き物がその黒い水たまりにいるのか、幼い僕には想像するしかなかった。

階段下の黒い池に棲む生き物たちについては、当時夢中になって読んでいた古代生物図鑑がリンクされて、その場所は僕の中ですっかり白亜紀の森林にできた溜池と化していた。

石畳の人造池の底にはきっと扁平な頭をしたディプロカウルスが両生類特有の緩慢な動作で這い回っているに違いない。そしてそれを狙う水辺の鳥脚類が時折来て前足で水底を攫うのだ。

そして夜になると博物館の奥底から夜行性の動物たちが現れる。
子熊のような大きさのプロトケラトプスの子どもたちが水を飲みにやってくるのだ。

僕の話を君は静かに聞いていた。
靴下を脱いで足先を水に付けている。

水底が電球に透けている。
初夏の風に吹かれて水面は光の粒子を内含して揺らいでいた。

「それなら」と君がいった。
夜のプールにも古代生物たちがいるかもしれないね。

こんなに大きなプールだから大きな生き物がいるかもしれないね。地球史上最大の両生類はプリオノスクスだ。推定の全長が9メートルもある。姿形はワニに似ている。

「9メートル」
建物の三階立ての高さだ。
ワニだったとしても巨大だ。ましてやプリオノスクスは両生類なのだ。

僕は水棲生物の悠々とした所作が好きだ。水流に乗って身をよじらせながら進んでいく彼らは美しい。
それに比べて僕達の体動は如何にもあくせくして醜い。

「笑ってしまうよ、きっと」
水の中でもがく僕を見たら。水棲生物たちはあまりの不器用ぶりに失笑するだろうな。

「それは時間に縛られているからでしょう?」
と君は水面を見つめたまま言った。
そうかもしれないね。
時間を気にせず水の中を悠々と泳ぐこともできるかもしれない。

「できると思うわ、例えばいま。」
いま?

青い光の中で君は衣服を脱いで下着姿になった。
僕の方へと振り向いて少し笑った。
のだと思う。
青く発光したプールを背景に君の顔は影になっていたから、僕には君の表情が見えなかった。

君はプールに向かって背中から落ちた。
水しぶきが上がって、君は水中に拡散した光の粒子の波間を泳ぐ影になった。

君の影はまるで古代の水棲生物のように悠々としていた。

僕はその場に立ち尽くして君の影を眺めていた。生き急ぐことを止めたとき、人間はこんなにも美しくなるのだ。
君の影に並行して古代生物たちの巨大な影が悠々と泳ぐ。

水中を満たす光の粒子が増えていく。
いまや水面は溢れた光の粒子に満ちて月よりも明るい。
泳いでいた筈の君の影やプリオノスクスたちは、光に溶けて見えなくなった。

かたちを無くしてしまった者たちが帰る国は空でも地中でもない。もっと形而上学的な世界だ。
光が差したその裏側にできる影の国。
彼らはそこから出でてそこへと還る。

僕達の世界と影の世界は時折交差して、郷愁にも似た切ない感情を残していく。
君はサヨナラも言わない。ただ消えるだけだ。あの時と同じように。

影になった君の顔はどのような表情だったのだろうか。もしかしたら僕が見たこともないような、表情であったかもしれない。