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屋根裏部屋の謎の鳥との戦争、SNSと個人の分断について、暗澹たる想い、三島由紀夫氏の講義、創作について考えること。

まえがき

 先日、東京から地元の自宅兼事務所に帰ってきてからというもの、暗澹たる想いが心身を支配して、どうにも、創作に身が入らない。

 ちょうど、noteのコンテスト締め切り(今月末)に間に合うようにと思い、自分の生き方の根幹に迫るような内容の長いエッセイを別で書いていたのだけれど、これがまた、一向に筆が進まない。ああ、困った。

 だから、今日は思いつくままに、自己療養的に文章を書いてみようと思う。そして、それをぽーんと、コンテストに投稿してみようと思い立った。たまには、自分のためだけに、文章を書いてみようではないか。

 というか、だいたい、誰かのために文章を書こうだなんて、なんとおこがましいことか。いったい僕は、どこの誰に向けて、酔狂な文章を書こうとしていたんだろう。嗚呼。だんだん馬鹿らしくなってきた。

 今はとりあえず、好き勝手に書こう。これは、あと数日で三十四歳を迎えようとする、とある物書きの独り言である(僕の誕生日は六月二日なのだ)。なんだか、のっけからずいぶん愚痴っぽくなってしまった。ま、たまにはこういうのも人間らしくて良いさ。さあ、続けよう。


屋根裏部屋に侵入した謎の鳥、日常に潜む戦争

 ちょうど、僕が東京から帰ってきたのと時を同じくして、自宅兼事務所の屋根裏部屋に、謎の鳥が入り込んだ。最初はネズミかと思ったのだけど、羽音や甲高い鳴き声がし、口ばしで壁を小突く音がする。騒音がひどく、せっかくの静寂が台無しになってしまった。たまらず業者に連絡をし、進入路の捜索と駆除対策を依頼する。

 もちろん、鳥に悪気はないだろう。毎年、どんな鳥かはわからないけれど、屋根裏部屋に巣を作りに来ていたようだった。だから、どちらかといえば、昨年の夏に自宅を改装して、屋根裏部屋の直下に事務所を作った僕のほうが新参者であり、鳥の立場からすれば、排除されるべきは彼らではなく、僕のほうであるに違いない。

 しかし、僕にも生活がある。せっかく、お金をかけて作り上げたお気に入りの自宅兼事務所を、はい、そうですかと、鳥に明け渡すわけにはいかないのである。

 ただ、これは、よく考えれば、もはやひとつの戦争のかたちだと言えよう。双方に譲れないものがあり、権利を行使するために相手を排除する。嗚呼、なんということだろう。僕は今、人知れず謎の鳥と戦争をしているのだ。

 しかも、業者に鳥の駆除を依頼するということは、僕は戦争する相手の姿を見ることすらなく、自らの手を汚さずに勝利を得ようとしているのである。非常に冷徹で、鳥の側からすれば、とんでもなく卑劣な相手だ。

 だが、今回の謎の鳥との戦争について、業者に鳥の駆除を依頼した僕の行動を罰する人間は(動物愛護的な感情論はさておき、法律的には合法なことなので)どこにもいない。そして、僕は何食わぬ顔で生活を続けている。

 もしかすると、僕たちは人間として生き続ける限り、こうした冷徹な戦争を、人知れず繰り返し続ける存在なのかもしれない。


順調に進む仕事、着実に伸びる利益。しかし、本質的に満たされるためには、心の満足が必要

 一応、昨今のフリーランスライターとしての仕事は順調に進んでおり、今月こなさなければならないタスクはほとんど終わっていて、あとは来月に向けて始まる仕事の準備と、今月分の残りの編集仕事を進め、請求書を作成すれば事足りる。

 取引をしている馴染みの代理店に送る請求書をまとめる。請求書に書かれた金額には、今月もまとまった利益が無事に得られたことを示している数字が並ぶ。

 しかし、結局のところ、個人的な金銭の充足から得られる満足というのは一時的なものであって、本質的な人生における心の満足は、自己実現や社会的貢献によって生まれるものである。

 僕の中に悶々と溜まっている、この暗澹たる想いを解消するためには、個人的な金銭面の充足だけではなく、何か別の、もっと大きな欲求を満たすための行動が必要となってくる。

 そのために必要な行動とは、いったい何だろう。


SNSと、分断された個人への暗澹たる想い。「共感の時代」ではなく、「分断の時代」に僕たちは生きている?

 先週1週間、東京で遊んでいる間はよかった。

 街はいつでも賑やかで、飲み屋に行けば飲みきれないくらいのお酒があり、今の自分を理解し、応援してくれる男友達がいて、素敵な女友達もたくさんいる。新宿や渋谷に出かけ、お酒を飲んで、皆に会ってあれこれおしゃべりをしているだけで楽しく、何かに悩む暇もなかった。

 たぶん、今もまだ東京にいれば、毎日のようにどこかしらで人と会って、酒を飲み、あれこれとおしゃべりを続けていることだろう。

 しかし、結局のところ、そんなふうに毎日を過ごしたところで、自分の中に内包された問題は一向に解決されない。

 悶々とした想いを、Twitterに連続ツイートで徒然に書いた。内容は以下のとおり。

 Twitterの連続ツイートにも書いたとおり、SNS展とプラド美術館展を見に行って、どうにも拭えない違和感が僕の中に湧き出した。

 そして、その悶々とした、言葉にならない感情が、暗澹たる想いとなって、身体の中に蓄積されているように感じる。

 ひとつだけ、誤解のないように書いておきたいのだけれど、SNS展の展示の内容が陳腐だったとか、決してそういう話ではない。会場では、現代のインターネットから生まれた作家の方々をはじめ、今を生きる人たちが、それぞれの想いを作品にしていた。ただ、僕の中に、SNS展を観た後、その場ではうまく言語化できない、何らかの由々しき感覚が生まれたのである。

 僕が感じたことを今、なんとか言語化してみると、僕たちが生きる今の時代には、「信じるもの」に対する共通項が、あまりにも不足しているのではないか、ということだ。

 それぞれの「信じるもの」が、世代ごと、性別ごと、個人ごとに細分化され、それは点となって、線で結ばれることなく、個人個人の私心がビー玉みたいにひとつずつ小分けで固まってしまい、かつバラバラに散らばっている。

 つまり、現代に生きる僕たちは、あまりにも個人的に分断されていて、「共感の時代」なんて言われているけれど、実際にはほとんど共通項がなく、SNSというツールをもってしても、点は点のままであり、自分も、他人も、ただ、ぽつねんと孤立しているだけような感覚を受けたのである。

 逆にいえば、「共感の時代」とは、つまり「分断の時代」を意味しているのかもしれない。

 個人的に分断された世界がバラバラに存在しているから、ときおり、一瞬だけ感じる「同じかも」という感覚に、「共感」という一時の価値が見出されている時代になっているのだろう。

 現代に生きる僕たちは、本質的には、圧倒的に孤立した存在なのだ。そして、その事実がSNSというツールによって、より浮き彫りにされたように感じる。

 一方、上野の国立西洋美術館で開催されていたプラド美術館展を見て思ったのは、過去の歴史上には「宗教」という、ひとつの共通項となり得る文化が、確かに存在していたということだ。

 だから、「神話」という大きな枠組みの中で、人々は共通項を持って、コミュニケーションを取ることができた。

 しかし現代、ことインターネット上には、一切、「神話」がない。一応、今の日本にも仏教や神道の教えは残っているし、僕個人は神仏を大切にする習慣を持っているけれど、多くの人にとって、日本の信仰は形骸化した文化だろうし、もはや日本は、ほとんど無宗教の国となっていると言える。

 日本という国は、このまま、無宗教の、個人が分断された、共通項のない、孤立した状態のまま、SNSやメディアに煽られる「共感」というわずかな共通項だけを頼りに、時代を転がっていくのだろうか。

 答えは出ない。簡単な問題ではない。

 だから僕は、この問題に直面してから、ずっと暗澹たる想いを抱えている。

 

早起きをして、三島由紀夫氏の講義を拝聴。そこから考える、今後の個人的な創作活動の方向性について

 暗澹たる想いを拭えぬまま眠りにつき、今朝、あまり寝付けずに早朝に起きて、自伝的な長いエッセイの続きを書こうとしたものの、やはり一向に筆が進まなかった。

 この時代において、いったい何を配信すべきかが、わからない。

 もちろん、各論であればいくらでも思いつく。フリーランスライターとしての日常、地方在住で東京と行き来する暮らしのメリット・デメリット、フリーランスライターの稼ぎ方について、時間に縛られない僕なりの生き方、好きなものについての話、などなど。ネタが思いつかなければ、いくらでもロールモデルはインターネット上に転がっているんだから、真似すればいい。書くことはいくらでもある。

 でも、だからなんだっていうんだ?

 そんなものをなぞって、いったい何がこの時代に残るのだ?

 僕が語りたいことは、あるいは考えたいことは、来年には忘れ去られているような世の中にありふれた各論についてではなく、もっと大きな、数十年、数百年に渡って考え続けられるような「何か」についての総論なのだ。この世界における、何らかの普遍的なものの存在について、僕は考えたいのである。

 仕方がないから、YouTubeのアプリを開いて、三島由紀夫氏の早稲田大学での講義を拝聴する。

 結論、非常に興味深い講義内容で、聴き終えた後になんとなく気持ちが晴れてきた。だから、エッセイは放ったままだけれど、取り急ぎ、今回の書きなぐりの文章くらいは書いてみようと思えた。

 以下、三島由紀夫氏の講義についての連続ツイート。

 これらの三島由紀夫氏の言葉を聴いていて思ったのは、おそらく、こうして今、僕が抱えている時代に対する暗澹たる想いというのは、彼の言葉を借りれば、「自分の中に出てきている、まだ言語化できない何か」であり、それは、三島由紀夫氏が小説を書くきっかけとなったと語る、出発点そのものに直面しているということなのかもしれない。

 そして、「社会の人達が使っている言葉を使って、お話を組んで、男女が寝れば小説だと思っている人がいる」とあるけれど、恥ずかしながら、僕がこれまで書いていた小説のようなものは、まさにそんな内容ばかりだった。だから、三島由紀夫氏に言わせれば、僕はまだ、本当の意味での小説を書いたことがないということでもあるのかもしれない。

 さらに、彼の言葉を借りると「自分の中で密かに作られた言葉は、社会的かつ一般的な言葉が必要な場所では通じない」とのこと。ここで言う「社会的かつ一般的な言葉が必要な場所」というのは、現代に置き換えれば「インターネット」も含まれるだろう。

 つまり、三島由紀夫氏的な解釈でいえば、インターネットはそもそも、今僕が語っているような、荒唐無稽な話を発信するべき場所としてはふさわしくないのかもしれない。なぜならば、インターネットは基本的に、社会的かつ一般的な言葉を用いることを求められる場所だからである。こうしたnoteのような媒体のページについても、白紙の原稿に書いた言葉というよりは、公共の場での発言に近い扱いを受けることのほうが多い。

 だから本来、僕が今こうして感じている暗澹たる想いは、こんなインターネット上のコラムで表明するようなことではなく、小説のエッセンスとして、フィクションの物語に再構築し、文学の奥底に沈めるべき話題であって、面と向かって誰かに語っても「なんの話?」と思われるのが関の山なのである。

 しかし、物書きとして未熟な僕は、まだ文学の広く深い海への船出の準備ができていないので(あるいは深淵に飛び込む勇気が持てていないので)、暗澹たる想いを抱えながら、こうして駄文を連ねて、とりあえずお茶を濁しているわけなのだ。

 正直なところ、こんな考え事をひとり、心の中に抱えているのがしんどかった。いったん、殴り書きでもいいから書いて、自分の感じていることや、これからやるべきことを整理したかったのである。だから、これは僕の壮大な独り言なのだ。自分で空に向かって唾を吐き、それを被っている。


 いや。希望的なことをいえば、こうして「エイヤー!」と、やけっぱちの言語化を始めた時点で、もしかすると僕は今すでに、自分なりの文学への船出を始めようとしている、とも言えるのかもしれない。

 この文章を機会にして、何かが始まろうとしているのかもしれない。


 正直言って、わからない。

 僕は今、自分で吐いた唾をかぶりながら、途方に暮れているのである。


 そして厄介なことに、書き終えたら、割と前向きな気持ちが戻ってきた。


おわりに——横尾忠則氏の引用を添えて

 わからないので、とりあえず、今回のコラムはこのへんで止めておく。

 最後に、「わからない」ということについて、三島由紀夫氏と同時代を生きた芸術家である横尾忠則氏が、Twitterでありがたい見解をつぶやいていたので、それらの言葉を引用して終わる。


 横尾忠則氏も、マルセル・デュシャンもわからないんだから、僕みたいな青二才が、こんな壮大な問題にいちいち悩んでいても仕方がないのかもしれない。


 とりあえず、長い小説を書き始めてみようか。

 何らかの公募に提出するか、然るべき人に読んでもらうか。

 とにかく、手を動かしていかなきゃあ、はじまらないよね。



 やけっぱちで、読み返しもせず、テキトーにコラムを書くつもりが、結局、何回も推敲して10,000文字くらいの長い文章になってしまった。一度書き始めると、まったく手を抜くことができない。悪い癖だ。ここまで何回読み返したかわからない。


 それでは、また。

 とりあえず、投稿ボタンを押して、晩御飯を食べます。

 スパゲッティでも茹でよう。


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