短編小説『和むのは、ずっと後になってから。』
腹が立っていた。
なぜわたしがこんな夜中に、これほどまでに腹を立てなくてはならないか。理由は覚えていない。でも、理由なんて問題じゃないのだ。問題は、今わたしが、間違いなく、強烈に、圧倒的に腹を立てていることであって、それ以外のことは全く重要なことじゃない。
わたしは高いヒールでアスファルトに穴を開けながら歩く。夜の渋谷の街はどこまでも続く。すれ違う男たちが、べとっとした目でわたしを見る。うるさい話し声が聞こえて、どこかからむっとするようなテキーラのすえた匂いがする。街から投げつけられる煩わしいだけの刺激に、わたしの怒りは加速していく。
激しいヒールの音を鳴らして夜の街を歩きながら、iphoneを取り出してLINEを開き、電話をかける。コール音が五回。五回以上は待てない。それがわたしのルールなのだ。
コール音の五回目が鳴る。
時間切れ。
おしまい。
何もかも。
LINEを閉じる。
わたしの怒りはさらに加速し、怒りの矛先は夜空を突き抜け、光の速さで大気圏を超え、はるか遠くの星の向こう側に住む何者かを、背後から突き殺そうとしていた。
鋭い切っ先が、見知らぬ何者かの背中を貫く。ぷつんと皮膚を破り、新鮮な、生きた肉の奥に、細く尖った怒りを滑り込ませる。ごりごりとした、肉を抉る感覚が響く。針金みたいに細長くしなる怒りを引き抜く。ぱっくりと開いた傷口から吹き出る、どろりとした、ねばねばの、真っ黒な血。もちろん、一度ではすまない。二度、三度、四度。五度。何度も、何度も。
わたしの怒りが、遥か遠くの星にいる、見知らぬ何者かを容赦なく殺していく。
遠くから、わたしに向けられた心無い同情の言葉が、こだまするように聴こえてくる。
ねえねえ。
痛かった?
痛かったよね。
痛かったでしょう。
そうだよね。
そりゃそうだ。
わかるよ。
は?
誰が?
なんで?
どうやってわかるっていうの?
ねえ。教えてよ。
今、痛みがわかるって言ったよね?
他人の痛みって、いったい、どうやったらわかるの?
あなたにわたしの痛みがわかるっていうの?
嘘だ。嘘だよ。そんなの。
だって。痛みなんて。わからないよね?
わかるわけないよね?
他人の痛みなんて、どうやったって、わかるわけがないんだ。
そうやって。いつも、わかったふりして。
わかったような顔ばかりして。
いい加減なこと言わないで。
嘘つき。
あなたは、嘘つきなんだ。
どうしようもない嘘つきだ。
人は、ひとりぶんの痛みしかわからない。
痛みは誰しも、自分のぶんしか知らない。
他人の痛みなんて、誰かにわかるわけがないのだ。
自宅のマンションの近くに着いた。渋谷からずっと歩いてきた。ずいぶんと長い距離を歩いたものだ。電車も、タクシーも、今日は使いたくなかった。誰にも近づきたくないし、近づかれたくもない。だから、とにかく歩いた。足はもう千切れそうに痛いし、今すぐ道端に、ヒールを投げ出してしまいたかった。
ふらついて、わたしは目を閉じ、深呼吸をする。
なんだか、お酒くさい。
そうか。
わたしはお酒を飲んでいたのだ。それも、とてもたくさん。少しだけ、脳裏に記憶が蘇ってくる。薄暗く、赤い照明で満たされているバーの風景。わけのわからない不気味なインテリア。髑髏のオブジェ。絡み合ってセックスしている男女の抽象画。イエーガー・マイスターの試験管。どこにも、人影はない。
わたしは、それから、どうしたんだっけ。
わたしは、いったい誰と、何をしていたんだっけ。
わからない。何も思い出せない。
なんで、迎えにきてくれないの。
急に身体が重くなってきた。わたしを今、突き動かしているのは、身体の奥の、腰骨のあたりから頭のほうに向かって突き抜け、際限なく噴き出してくる、巨大な蛇のような怒りだ。
わたしの身体の中に、真っ黒に肥えた蛇がいる。
そいつが激しく暴れている。わたしの内臓は食い破られ、蛇のぬめぬめとした太い下水管みたいな身体が、わたしの手が届かないところをぐるぐると這いずり回る。
痛い。
いやだ。
痛い。
いやなの。
そうだ。痛み——身体の奥にべっとりと染み付いた鈍い痛みを思い出して、わたしは再び、たぎるような怒りに支配されていく。
嘘つき。
わたしはヒールを脱いで裸足になる。
そして、スイッチが入ったように駆け出した。
喧騒に包まれた街を駆け抜けて、近くにあったコンビニの光の中に走り込む。店員がびっくりしたような顔で、裸足で入店してきたわたしのことを見ているけれど、そんなことは気にしない。
どうでもいい。
わたしはカゴを手に取り、ぺたぺたと足音を立てながらサラダが並ぶコーナーに近づく。そして、目につくサラダを次から次へとカゴに放り込んでいく。ばさっ、ばさっ、と音を立て、サラダがカゴの壁に衝突する。サラダコーナーに置いてあるサラダがなくなるまで、わたしはサラダをカゴに放り込んだ。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、と素足で床を叩いて、わたしは店員のところにいく。店員は唖然としたような顔でわたしの顔を見ているけれど、わたしはまったく気にしない。
あなたがわたしのことをどう思おうと関係ない。
どうでもいいのだ。
サラダだらけの重たいカゴを、どさっとレジカウンターに置く。ふと、レジカウンターの横を見ると、透明なケースの中にフランクフルトが十本ほど並んでいた。
「全部ください」
わたしは、フランクフルトを指さす。
「はい? えっと、ぜんぶですか」
店員が、しどろもどろになりながら言う。
「全部ください。ぜんぶ」
わたしは無表情で繰り返す。
「……温めは、いかがなさいますか」
店員が、恐る恐る聞いてくる。
「どうでもいいです」
わたしは無表情で言う。
店員は、わたしと目を合わさないようにしながら、黙ってレジ打ちを始めた。サラダをつかんで、ひとつひとつレジに通し、袋に詰めていく。フランクフルトは時間がかかった。ひとつひとつ小分けの袋に詰めていく必要があるからだ。店員は焦りながら、必死になって袋に十本のフランクフルトを詰めている。
わたしは、その様子を黙って眺めていた。レジ打ちの音を聞いていると、なぜか妙に心が落ち着いた。少しばかりの間、わたしは怒りを心の奥にしまい込むことができた。
「……4,940円になります」店員はわたしの顔色を伺いながら言う。
わたしは、財布から5,000円を抜き取ると、レジカウンターの上に置いた。そして、そのままお釣りも取らずにサラダとフランクフルトが詰まった袋を持ってコンビニを出る。
外に出ると、またわたしの身体の中で、真っ黒な蛇が鎌首を持ち上げ、暴れ始めた。わたしは歩く。アスファルトの硬い感触が素足に食い込む。そしてわたしは、自宅のマンションの中へ、まっすぐに入っていく。
家の中に入る。
扉の閉まる音。暗い廊下の向こう側から、犬が元気に走り寄ってきた。
まだ飼い始めたばかりの、雌のヨークシャーテリアだ。犬が走り出してきたリビングの扉のすりガラスからは、淡い光が漏れている。遠くで小さく、テレビの音が聴こえる。犬は無邪気に、わたしの帰りを歓迎している。
しかし、わたしの中で暴れる怒りは、まったくおさまらない。犬は、そんなわたしの心の中の危険な蠢きをまったく察していないらしく、嬉しそうにしっぽを振って、高い声で吠える。
わたしは手に持っていたヒールを玄関に投げ出すと、リビングにまっすぐ向かう。そして、殴るように扉を開く。ばたん、と音がする。部屋に足を踏み入れる。
リビングのテレビはついていて、ソファーにはパジャマ姿の夫が座っていた。
こちらを見ずに、テレビに集中している。テレビには、海外のサッカーの試合が映されていて、テーブルにはグラスに入ったビールと、ビーフジャーキーのつまみが置いてあった。
夫は、わたしを一切見ない。
わたしは目を見開く。
拳をぎりっと握りしめる。
わたしの中で、ぷつんと、何かが弾ける音がした。
次の瞬間、真っ黒に肥えた大蛇が、わたしの脳天からずるりと弾け出て、この部屋に現れた。重たそうな三角の鎌首をもたげて、細い舌をちろちろと出しながら、冷徹な小さな目で、リビングに座っている夫の背中を見下している。
こんなはずじゃなかった。
わたしは買ってきたサラダとフランクフルトの袋を床に落とし、袋の中からサラダの中身を取り出すと、次々にリビングに投げ込んでいった。ばさっ、ばさっ、ばさっ、と音を立てて、サラダがリビングに散乱していく。キャベツ、トマト、レタス、パプリカ、わかめ、大根、たまねぎ。色とりどりの野菜が、雪みたいにリビングの床に降り積もっていく。
夫はこちらを向いた。でも、何も言わない。口を少しだけ開けて、リビングに次々に投げ込まれるサラダの行方を、目で追っていた。興奮した犬が走りこんできて、サラダが投げ込まれるたびに、その着地点に走り寄り、その場でぐるぐると回って、楽しそうに吠えた。
こんなはずじゃなかった。
サラダを全部投げ終わってしまうと、わたしはフランクフルトを小分けされた袋から取り出し、次々にリビングに投げ込んだ。フランクフルトは、ぼとっ、ぼとっ、ぼとっ、と鈍い音を立てて、壁や、机や、テレビにぶつかり、床に転がって沈黙した。
フランクフルトの匂いを嗅ぎつけた犬は、狂ったようによろこんで吠えた。そして、床に落ちたフランクフルトに迷わず走り寄ると、その場でむしゃむしゃと食べ始めた。投げ込まれたフランクフルトのうちの一本が、ビールのグラスに当たって、グラスは床に転がり落ち、ビールがぱしゃっと広がった。
こんなはずじゃなかったのに。
フランクフルトも全部投げてしまうと、わたしは手元に残ったビニール袋をつかみ、夫に向かって投げつけた。くしゃっ、という情けない音を上げて、袋は夫にぶつかり、ひらひらと床に落ちる。
夫は、黙ってわたしのことを見ていた。
わたしは、何も話さない。
夫も、何も話さない。
沈黙。5秒、10秒、20秒、30秒。マリアナ海溝の底みたいな、深い沈黙が続いた。わたしも、夫も、まったく動かない。犬が二本目のフランクフルトを咀嚼する音だけが、部屋に響いていた。
やがて夫は、身体中に降り積もったサラダを払い落として立ち上がると、やれやれ、というふうに何度か首をふり、結局、一言も発することなく寝室へ入っていった。
わたしは床に散らばった色とりどりの野菜と、転がったビールのグラスと、しみのように広がったビールと、何本ものフランクフルトと、それを嬉しそうに食べる犬の様子を、ぽつねんと眺めていた。
これ、いったい誰が片付けるんだろう。
「お前はいったい、何を望んでいたんだ?」
リビングでぽつねんと立ちすくむわたしに、機械のように冷たい声で、蛇が話しかけてくる。わたしは、ぼんやりと、蛇の問いを反芻する。
わからない、とわたしは声に出さずに心の中で思う。ただ、こんなはずじゃなかったのよ。わたしはもっと、この生活に、何か大事なものを求めていた。でも、今ではもう、自分がいったい何を求めていたのかも思い出せない。
ずきん、と、身体の奥が痛む。
——痛み。
心無い人たちの同情。何も言わない夫。続いていく無機質な日常。遠く暗い宇宙に浮かぶ星のどこかで、光を一度もみることなく無慈悲に殺されてしまった命。そうしたひとつひとつが、まるで凌遅刑のように、わたしの心を薄く薄く、何度も何度も削ぎ落とし、いつの間にか、わたし自身の人生の望みそのものを、まるでなかったことのように蹂躙していったのだった。
「お前は、家族が欲しかったんじゃないのか?」
蛇の声が聴こえる。その声は、とてもとても、遠くから響いていた。リビングを見渡すと、そこには、わたしひとりだけがぽつねんと佇んでいた。足元では、一匹の犬が、三本目のフランクフルトを食べ始めていた。
家族。
これがわたしの望んだもの。
わたしはごろんとリビングの床に寝転ぶと、小さく、丸く、うずくまった。冷たい板の感触が気持ちいい。目に見えるものも、目に見えないものも、いろんなものが、もう修復不可能なぐらい散らばって、わたしはその真ん中で、たったひとり、赤ん坊のように丸まっている。
今のわたしにとって、たしかなものは、痛みだけだった。
身体が、心が、魂が、痛みを感じている。わたしだけにしかわからない、わたしだけが感じることのできる痛みを。今のわたしには、ただそのことだけが、宇宙空間を貫いて進む孤独な彗星のように、鮮明に理解できた。
故郷の青い田園風景に沈んでいく太陽を眺めながら、わたしはふと、ずっと忘れていたはずの、あの頃の自分のことを思い出していた。
巨大な蛇のような、激しい怒りに支配されていた自分。
今のわたしにはもう、そんなエネルギーはどこにもない。ただ静かに、風に揺られる柳のように生きているだけだ。
あれからもう、夫とは一度も会っていない。今では、どこで何をしているのかもわからないけれど、あの人のことだから、きっと今でも大好きなサッカーの試合をテレビの前で眺めて、ビールでも飲んでいるのだろう。
わたしは今、幸せなのだろうか。
正直なところ、あまりよくわからない。ただ、あの頃のように、何かを激しく憎んだり、身体を怒りに支配されるようなことはなくなった。それはもしかしたら、ある種の幸せと言っていいのかもしれない。
たぶん、幸せとは、諦観に近いものだ。
何かを悟り、あきらめたとき、それまで身体を縛り付けていた巨大な蛇から解放される。そして、自らを苦しめていたその蛇は、他でもない自分自身であることに気づくのだ。
今ではもう、犬がもぐもぐとリビングの床に落ちているフランクフルトを食んでいる光景が、懐かしくわたしの脳裏によぎる。どんなひどい想い出も、手が届かないところまで来てしまえば、どこか愛おしく感じられるものだ。
痛みとともに、生き続ける人生は、それからも終わることはなかった。
そして、わたしの魂が和むのは、ずっと後になってからのことだった。
[完]
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狭井悠(Sai Haruka)profile
三重県出身、立命館大学法学部卒。二十代後半から作家を目指して執筆活動を開始。現在、フリーランスライターを行いながら作家としての活動を行う。STORYS.JPに掲載した記事『突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。』が「話題のSTORY」に選出。STORYS.JP編集長の推薦によりYahoo!ニュースに掲載される。2017年、村田悠から狭井悠にペンネームを改名。
公式HP: https://www.sai-haruka.com/
Twitter: https://twitter.com/muratassu
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