元父親に会いに病院に行った話

元父親との面会に家族で行ってきた。

前から聞いてたのは糖尿病、アルコール依存性、ウェルニッケ脳症。数ヶ月前に倒れ、失語症と右半身麻痺になったらしい。

面会時間は15分。母はギリギリで行ってなるべく短く済ますつもりらしい。弟はそれに大賛成だったので、私もそれでいいねと言っておいた。

受付で面会許可証をもらってエレベーターに乗る。降りると受付があったけど、人がいなかった。脱走防止かドアは職員がいないと開かないようになっていて、そこで待った。何人かが慌ただしく通り過ぎていって、声をかけるのに少し時間がかかった。

共用の食堂の椅子に座っていたのが遠くからでも見えた。名前のラベルが貼られた、ゴム製のストローがついたボトルで水を飲んでいた。口から溢れてしまうようで、隣の看護師さんに時折ティッシュで押さえてもらっている。茶髪の綺麗な人で、昔の父母が並んでいた姿をどこか思い出した。

真っ直ぐな黒髪が肩に着くほど伸びていた。もともと長めではあったけど、ここまで長いのは私が生まれる前の写真でしか見たことがなかった。前髪を昔と同じく百均のメンズカチューシャで上げていた。切ってあげればいいのにと思ったけど、エレベーター内にカット1回3000円と書かれていたのを思い出した。たったそれだけのお金すらかけてもらってないのだろう。

前に会ったときよりぐんと老けていて、目がどこかぼんやりしている。でも私たちの顔を見るなり、顔を思いきり歪めて泣き出した。動く左手でペーパータオルを掴んで、ごしごしとぎこちなく目を拭いていた。顔は老けたのに手は滑らかで若々しくて、しわひとつなくてびっくりした。家事をやらない人の手だと思った。透明のパネル越しに、3つ並べられた椅子に座った。すぐ隣のナースステーションで看護師さんが、こちらを見ながらなにか話していたのが横目に見えた。私のただの自意識過剰だったかもしれない。

父親の体はやせ細っていた。もともと糖尿病で痩せ型ではあったけれど、それを越して文字通り病的に痩せていた。機嫌のいいとき、私と弟を同時に抱っこして遊んでくれた父はいなかった。がっしりした肩幅に反してひどく薄っぺらくて、頼りなく痛々しく見えた。手首の骨や鎖骨がはっきり見えるほど浮き上がっていた。
拭いても拭いても涙が止まらないようで、3分くらいひどく泣いていた。その間は母がときどき看護師さんと会話をしていた。看護師さんは柔らかくて丁寧な話し方だったけれど、笑顔が嘘っぽいなと感じた。弟は無表情でそれを見ていた。私はなんとなく微笑を浮かべていた。

顔には麻痺出てないんですね。見た目じゃわからない

そうですね。体の方はかなり症状出てしまっているんですが

右手とかはまったく動かない感じなんですか

はい。首から下は感覚もないみたいですね

そうなんですか。最初からずっとこんな感じで元気ないんでしょうか

いえ。入院されたばかりの頃はこう…逆に活気がありすぎて…机を叩いたり、物を投げたりされていたので
いまはすこし落ち着くお薬を飲んでいただいてます

ふーん、そうなんですね。薬はどのようなものを?

私の方ではいま名前までは……

あっ、わかりました。分からない方が幸せなこともありますものね

そうですね………

目の前に本人がいるのに他人事みたいに会話が進んでいて、その違和感が気持ち悪かった。私と弟は一瞬、どちらともなく目配せをした。

少し経って看護師さんが落ち着きましたかと優しく問いかけていた。3回目くらいで、父親は弱々しく横に首を振った。さらにお名前はわかりますかと聞かれ、震える左手で私のことを指さした。何度も何度も指をさし、自分の頭を叩き、机を叩いていた。ひどく焦れったく見えた。苦しそうな表情だった。どんどん震えが酷くなって、あ、あ、と言葉にならない声が漏れた。痙攣みたいに首を振ってまた泣き始めた。自分が付けた名前なのに忘れたの?と言おうかと思ったけど、やめた。看護師さんが弟と母の名前も聞いたけど、答えられなかった。頭では覚えてるんですけどねぇ、そうですよね、と看護師が気休めを言った。

そのあとも母と看護師さんだけが対話をして、奇妙な時間が過ぎていった。父親はずっと悲しそうな苦しそうな、苦々しい表情をしていた。終了時間間近になって、看護師さんが父親になにか言いたいことはありますか、と聞いた。父親は口を開いたけれどすぐに閉じ、首を横に振った。顔を見れただけで満足ですもんね。と看護師がまた言い聞かせるように言った。

母がパネル越しにじゃ、頑張ってねと言った。感情がまったくこもっていなかったのがわかった。
弟は一声じゃ、とだけ言った。最後に恨み言を吐いてやる、と意気込んでいたけれど、その気はなくなったみたいだった。

私は無言でひらひら右手を振った。どんな表情をしていいのかわからなかった。ワンテンポ遅れて父親と目が合った。目に涙が光っていた。顔が相変わらず弟によく似ているなと思った。

母がさっと振り返って歩き出して、弟がそれに続いた。最後に私もその後ろに着いて行った。

曲がり角を曲がる前、1度だけ振り返った。父親はずっとこちらを見ていた。また小さく手を振った。置いていかれたちいさい子供のように見えた。

角を曲がってすぐ、あれはすぐ死ぬだろう、葬式も行かなくていい、もう二度と会うことはない、と母が言った。これが今生の別れというものらしかった。呆気ないものだなと思った。

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