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ムサビ授業10:生きることの「全体性」の回復(医師 稲葉俊郎さん)

武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダシップコース クリエイティブリーダーシップ特論 第10回(2021/09/13)
ゲスト講師:稲葉 俊郎さん

◆「クリエイティブリーダーシップ特論(=CL特論)」とは?
武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科クリエイティブリーダーシップコースで開講されている授業の1つです。
「クリエイティブとビジネスを活用して実際に活躍されているゲスト講師を囲んで、参加者全員で議論を行う」を目的に、社会で活躍されている方の話を聞き、受講生が各自な視点から考えを深める講義となっております。

◆注記
この記事は、大学院の講義の一環として書かれたものです。学術目的で書き記すものであり、記載している内容はあくまでも個人的な見解であります。筆者が所属する組織・企業の見解を代表するものではございません。

講演者紹介:稲葉俊郎さん

9月も半ば、後期の授業も全てが開始し、産学連携でのサービスデザインプロジェクトが始まったり、修士研究を進めなければいけなかったりと、充実した日々が続きます。

今回の話は、他のどの授業よりも異質でありながら、心の奥底に突き刺さるものとなりました。稲葉俊郎さんは社会的には「医者」でありますが、その考えや実践はその枠組みを超えています。

1979年 熊本生まれ。医師、医学博士。
1997年 熊本県立熊本高校卒業。
2004年 東京大学医学部医学科卒業。
2014年 東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。
2014年-2020年3月 東京大学医学部付属病院循環器内科助教
2020年4月 軽井沢病院 副院長・総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020 芸術監督)
2021年1月 軽井沢病院 副院長

東大病院時代には心臓を内科的に治療するカテーテル治療や先天性心疾患を専門とし、往診による在宅医療も週に一度行いながら、夏には山岳医療にも従事。

医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。国宝『医心方』(平安時代に編集された日本最古の医学書)の勉強会も主宰。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業・・など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。

2020年4月から軽井沢へと拠点を移し、軽井沢病院(総合診療科医長)に勤務しながら、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員を兼任。東北芸術工科大学客員教授(山形ビエンナーレ2020 芸術監督 就任)を併任。

全体生を取り戻す新しい社会の一環としての医療のあり方を模索している。

お話の内容:「生きるとは、どういうことなのか?」

稲葉先生のお話は、大学院の講義という枠を超えて「生きるとは何か?」を考えさせられるものでした
※この記事の中でどのように書いても、その一部しか伝えられない気がしています。話の立体感を保つために、別の記事を引用しております。

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一瞬一瞬は人生の絵巻物のひと場面。
なぜ生きているのか?どこからやってきてどこへ向かうのか?
どういう人生の全体性を生きているのか?自分でしか読み取れない。

熊本の本妙寺の近くで生まれた。
幼少期、お寺の境内にハンセン病の人が運ばれていた。
医療従事者にも見捨てられ、お寺で引き受けたという。
祖父と一緒にそばを通るたびにそのことを言われ続けた。

母方の祖父がシベリア抑留の体験を私記にしようとしていた。
捕虜でも殺されなかったのは、書道の達人だったから。
「芸遊」という言葉を強調していたのはそのため。
自分の芸は剥がされない。

幼少期は病弱。2-3才の同じ病室の子が死んでいった。
なぜ自分だけ生き残ったのか?
なぜ人間は生きているか?
なぜ勉強するのか?なぜ結婚をするのか?
色々なことに疑問を持った。

「人の命を助けたい」という思いで医者になった。
東大の医学部に通い、カテーテルの専門家になった。
ミクロの世界。匠の世界に憧れていた。
日本で数人という0.1mmの世界のスペシャリストになったが、
「本当にやりたかったことなのか」思うようになった。
在宅医療にも注力。東大病院では患者の本当の姿はわからない。

東大時代から山岳部で山にはまっていた。
自分の悩みを受け止めてくれる気がした。
年間100日くらい登山に行った。

何にもないところから医療をやるというのが人間の原点。
医療とは何か、先生と夜通し話した。
何が本当の医療なのか?何が自分がやりたいのか?自分は何を人生で賭けたいのか?

大学院生のときに東日本大日本震災に見舞われた。
揺れたときにいろいろなイメージが湧いたが、すぐに原発のことを思った。
すぐに医療ボランティアにいくという話が出た。
人工透析の患者は2日に1回透析しないと死んでしまう。
東大でも患者を受け入れようとなった。

間もなく東北に行った。街という街が何も無くなった。
文明というのは自然の中で失われる。
その中で生きて行かなければならない。
そして一度リセットした。

故人に謡を捧げている能楽の観世流の方がいた。
福島の原発事故の後、能を学ぶようになった。
大学のときに能を見に行ったが「とにかくすごい」というのは感じていた。
人が亡くなるということに向き合わなければならないと思った。

世阿弥の『風姿花伝』を読んで、医療のことを言っているのだと思った。
「寿と福を増やす」。
本当は医学書の中でこのことを読みたかった。

自分の中で一番表現できるのは文字だと思い、本を書くようになった。

『からだとこころの健康学』。
医学部の学生から18年くらいかかって言語化できた。

医学では、なぜ西洋医学しか勉強しないのか?
それまで「病気学」を学んでいた。本当は「健康学」を学びたかった。
人間が健康になるとは何か。いま欠けているのはそこなのではないか?

『いのちを呼びさますもの』。
自分がなぜ医者になったか思い出したのは本を書いてから。

東大病院という象徴的な場所で変えれば、変わると思った。
皆が共感してくれるわけではない。厚い壁があった。

自分が理想に思ったことを実現しようと思ったときには、
実現できる場所にいくべきなのではないか。
本当にやりたかったから、できる場所に移動してきた。
それが軽井沢に来た理由。

芸術と医療と教育。大学病院時代から思っていた。

山形ビエンナーレ。
芸術祭は全部中止になっていた中、オンラインでやった。
医療と芸術に橋をかけるというテーマ。
「人間の全体性を取り戻す」という意味で、
医療と芸術は引き離されるものではない。

軽井沢は「屋根のない病院」と呼ばれている。
病気を扱うのではなくて、人間を扱う場にしたい。
病院だけではなく、人間が健康になれる場を日本に増やしたい。
銭湯、飲食店、美術館。
健康になる場をどう作るのか?

コロナのような感染症においては西洋医学は強いと思っている。
だが、本当に向き合っているのはどうやって健康になれるのか?

いま、コロナウイルスという極小の世界と、
地球という極大の世界がバランスを崩している、
というのが象徴的。

医者の活動だけでは死ぬに死にきれない。
次の世代にバトンを渡したい。
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講演の補足:「のちは のちの いのちへ」

講演内容に補足して、最近の著書『のちは のちの いのちへ 新しい医療のかたち』から印象に残った一節を抜粋したいと思います。

そもそも、病気と健康は対立概念ではなく、互いに補い合う関係でもある。なぜなら、健康になるために病気を経る必要がある場合もあるし、病気自体が健康という理想的な状態とのずれから感じられる概念でもあるからだ。
例えば、禅の教えで大切にされることは、主体と客体(自分と他者)を分離しないことであり、それは自分と自然とを一体のものとしてバラバラに分離せずに捉えていくことにも通じる。そして、言葉や概念などの「あたま」の論理でこの生きた世界を分離し分割しカテゴリー化するように分けていくことを拒み、すべての繋がりを一体のもの(一如)、全体的なものとして捉え直し続けることを大切にしている。
西洋哲学が「存在論」としての哲学だとすれば、仏教を含めた東洋思想は「関係論」としての考えとでも呼ぶべきものだ。一個一個の独立した「存在」を考えるよりも、その「存在」を成立させるために必要となる周囲の関係性や環境という全体性をこそ大切にする。
ひとりの個人だけの問題ではなく、人と人の間にも、人とその他の生命の間にも、人と自然との間にも、あらゆる関係性は分かちがたく繋がっている。「からだ」「こころ」「いのち」の全体性を取り戻す医療は、世界の平和へ、多様性が共存、共生する未来へと繋がるはずだと、きっと多くの仲間がいると信じ、希望を持ちながら私は活動している。
自分が子どもの時に大切にしていたことを損なわないよう、子ども時代の自分に噓をつかないよう、子ども時代の自分が尊敬できる自分になれるよう、今こうして生きていることが、自分という人生の過去と現在と未来との関係性を繋ぎ合わせることになる。

私個人のこと:能の宗家というルーツ

稲葉先生は能楽との出会いに大きな影響を受けたと仰っていました。私も能に影響を受けている一人であります。

私の母方の先祖は「福王流」という能のワキ方の宗家だそうで、家としては室町〜戦国時代から能を舞っていたようです。

江戸時代には将軍の前で披露することもあり、九世家元の福王雪岑が描いた謡初の絵は江戸東京博物館で見ることができます。

画像1

https://museumcollection.tokyo/works/6255198/

実家には謡本がたくさんあり、小さいときは何の本だかわからなかったのですが、最近になって代々継いできたものだったと知りました。

稲葉先生が自分のルーツに関する話をされていたこととと能の話をされていたのは全くの偶然ですが、私自身の人生を顧ても、能の教えに影響を受けているような気がします。

6才のときだったと思うのですが、一人で家に帰っている途中、ふと自分が自分で誰だかわからなくなって、斜め上から自分自身のことを眺めているような感覚にとらわれたことがあります。

目の前の風景を見ていながら、第三者としてその場を歩く自分を見ているという感じで、自分という存在がなくなってしまったようで、怖くなったことをよく覚えています。

世阿弥の言葉で「離見の見」という言葉があり、普段スピリチュアルなことは信じない性格たちなのですが、「舞台に立つときは観客の目線からも自分を見よ」というこの教えに影響されているのかなぁと思うことがあります。

今でも能は見に行くのですが、舞台で行われている夢幻能は観客席(見所)から見ていても、死者や架空の存在が顕在してくるような、現実から夢の世界に溶け込むような、不思議な感覚になります。それは主体も客体のない世界で、一つに溶け込んだような世界です。

なので、稲葉先生が「いのちの全体性」という言葉で表現されているものも少しはわかる気がするのです。

印象的だった話

・生と死の関係や繋がりについて
 生きているものと死んでいるもの。言葉というのは死者から渡されたもの。パソコンでも家でも道路でも、全ては死者から渡されているもの。
 歴史の一瞬の中に今の人生がある。死者からして恥ずかしいことはできない。大切にしなくてはならない。
 能をやることによってそれを思った。シテは死者の世界にいる。病気になって初めて健康の価値がわかるのと同様、死者の立場になると生きる立場のことを考える。死者から助けれている。また、いずれ死者になる。

・ 生きるということとは?
 「人生の全体性を取り戻していく」ということ。生きるというのは自分の人生の全体。人間は生きて死ぬというサイクルからは逃れられない。
 人生の断片の色んなことがつなぎ合わせていくというのが未来になる。「この人たちだったら自分のことをわかってくれる」というのを大切にすること。忘れてたのだったらもう一度つなぎ合わせる。自分にしか作れない星座。だからこそ人間は面白い。

・死というものは他者のものである。自分の死というのは難しすぎる。
 芸術の原点、創作は死にある。医療と芸術の接点。疑問を考え続けた先に自分の人生がある。100人に1人しか思っていない疑問かもしれない。それを探究することが自分の人生になる。

特に、死者の営みの上で自分が生きているということを深く考えさせられました。偶然、その後福王家のお墓参りに行ったのですが、いつもは強く意識しなかった先祖の存在により感謝するようになりました。

自分が死者に生かされているということ。先祖に生かされているということ。全ては繋がった一連の流れであり、生の螺旋という中で自分は生きているのだなと思います。

自分のいのちは死者から受け、未来の一部を借りているのだと思うと、自分の人生の意味も違って見えるようになりました。

クリエイティブリーダーシップとは?
~「いのち」の本質について考え続ける~

語弊を恐れずに言えば、CL特論の中でも異質なテーマだったと思います。
「クリエイティブ」や「リーダーシップ」のような枠ではない、もっと高い次元の話だったと感じます。

お寺の住職のお話を聴いているような感じで、観念的な表現にはなりますが「いのちを紡ぐこと」を考えました。

今見ている世界も、自分のルーツに大きく影響されている。そうすると自分の子孫も自分の営みに大きく影響されていって、、という螺旋が漠然としたイメージで感じられる、という感じです。

そうすると、今まで切り離していた外の世界と自分の中の世界とが不可分な存在と捉えられ、世界を見ているのと同時に世界に溶け込んでいるような気になります。

また、これは仏教の教えにも近いのかもしれないと思うようになりました。仏教の価値観では、現世で努力と実践を繰り返すことによって涅槃寂静の境地に達し、煩悩から解脱し悩みがなくなること(悟りの境地)を最高の到達点とします。

悟りのことを「無我の境地」というように言葉の通り、究極的には自分という存在も世界は大きなものの一部であると考えることがいのちの本質なのではないか、、

色即是空 
この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり、不変のものではない。

空即是色
宇宙間のあらゆる事物は実体がなく空であるが、その空と見られる、実体のないということが、そのまま一切の事物なのである。

全てのものは実体がなく、全てのものは大きなものの一部と考えることは、「いのちの全体性」という稲葉先生の表現と近いかもしれません。

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