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怨霊となった?!藤原広嗣の乱について~会話形式で分かりやすく~

1,登場人物

藤原広嗣:藤原式家の出身  聖武天皇  橘諸兄

玄昉吉備真備:橘諸兄政権において大出世

大野東人佐伯常人阿部虫麻呂:乱の終結に貢献した政府側の官人 

2、背景

藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が天然痘で死去した後の739年、朝廷の政治は橘諸兄が担っていた。この橘諸兄は唐から帰国した吉備真備と玄昉を重用したのである。

藤原広嗣「わが父を含む藤原四子が死去してから諸兄が朝廷の権力を牛耳っている。これは全く許せぬことじゃあああああ!それに加え、諸兄が重用している吉備真備玄昉とかいうやつはもっと許せぬ!!!!なぜあんな身分の低い奴が重用されているのか」

~朝廷内~

橘諸兄「広嗣は困ったやつじゃ、我が政権に大きな不満を抱いておる。そうじゃ、奴を太宰府に左遷してしまえばよいではないか。元々奴は素行もすこぶる悪い。ちょうどいいではないか。ガハハハッ」

このように藤原広嗣は太宰府に左遷されてしまった。

~740年大宰府内~

藤原広嗣「己ー!!諸兄めがーーー!!一緒にいる玄昉と吉備真備がわしの左遷を促したに違いない!天皇であればこの唐からの留学生が世の中を不幸に陥れていることを分かってくれるはずじゃ。」

広嗣は玄昉と吉備真備の追放を求める上奏文を朝廷に提出した。しかし、この上奏文の内容は諸兄への批判が大半を占めていた。また、広嗣は同時に太宰府に兵を動員していたのである。

3、戦いの経過

~朝廷内~

橘諸兄「天子様、広嗣の暴挙、これ以上許すことはできません!」

聖武天皇「そうじゃなぁ。一度広嗣を朝廷に呼び出そう。」

しかしながら、広嗣はこの天皇からの召喚の命令を無視したのである。さらに広嗣は弟である藤原綱手と共に大宰府の兵や隼人など合わせて1万人の兵を豊前国(現在の福岡県東部と大分県北部を合わせた場所)に集結させた。

聖武天皇「こ、これはいかん!もはや戦うしかあるまい!大野東人!そなたを広嗣征討の大将軍に任ずる。思う存分戦ってまいれ!」

大野東人「はッ!!!」

後日、朝廷に出仕していた隼人24人や佐伯常人、阿倍虫麻呂が従軍を命じられた。

数日後、大野東人以下討伐軍が長門国に到着した。

~政府討伐軍の軍議~

大野東人「まずは九州へ渡るための船を確保する。」

政府討伐軍はあっさり船を確保し、九州への上陸を成功させた。そして板櫃川に陣を敷いた。

一方、広嗣軍では

~藤原広嗣軍の軍議~

藤原広嗣「い、いかん。政府軍の動きが早すぎる。我々は筑前から兵5000人で進軍する。弟の綱手には豊前から進軍するように伝えてまいれ!」

板櫃川の戦い

広嗣は板櫃川に至り、川の西に布陣した。しかし、綱手の軍は合流することができなかった。

広嗣「隼人を先鋒に板櫃川を渡河せよーー!!!」

しかし、政府討伐軍が広嗣軍の隼人たちに投降を呼びかけるとあっさりそれに応じた。さらに、佐伯常人は広嗣を自らのもとに呼び寄せた。

~佐伯常人の陣~

広嗣「天皇から派遣された使者は誰だ?」

佐伯常人「私と阿部虫麻呂だ。」

広嗣「私は朝廷に反抗しているわけではない。玄昉と吉備真備が許せんのだあああああ!私が朝命に反抗しているのなら、私に天罰が下るであろう。」

佐伯常人「ではなぜ兵を率いて攻め寄せたのか」

広嗣「、、、、、」

広嗣はこの質問に答えることができず、自陣に帰っていった。この問答を聞いていた広嗣軍の者たちの投降者が相次ぎ、この戦いに広嗣は敗れたのであった。

~政府討伐軍の陣~

大野東人「ガハハハッ。皆の者よく戦った。次は逆賊である広嗣を捕らえることに専念してもらいたい。」

広嗣の最後

広嗣は五島列島に渡り新羅へ逃れ、再起を計った。

広嗣「新羅に行き、再興するぞ!!ん?!な、なんだこの風は、船が押し戻されているぞ!私には神がついている。私を助けた給えーーー!!!!」

広嗣は風によって船が押し戻され、帰国した。その後、現在の宇久島に潜伏していることを捕らえられた。そして

広嗣「無念じゃーーー!!!!」

シャキンッ!

広嗣は弟の綱手と共に処刑された。

4、乱の影響

この結果、藤原式家は衰えた。しかし、この乱に衝撃受けた聖武天皇が立て続けに遷都するなど社会的に与えた影響は計り知れなかった。

5、歴史のなぜ

〇藤原広嗣の敗因

①まず一つは兵の士気です。広嗣のもとに集まった兵は長年の中央政権の恨みから集まった兵が多く、決して広嗣のために戦いたいというわけではなかったのです。実際、広嗣に組した隼人たちは政府側についている隼人たちをみて攻撃するのをやめたり、投降したりしています。

②政府側の迅速な対応も大きな敗因の一つです。広嗣が全軍の合流地点と考えていた豊前を取られたことは大きな痛手となったと思います。実際、弟の綱手とは合流することができませんでした。

〇怨霊としての藤原広嗣

晩年の玄昉は、藤原広嗣の祟りで苦しめられて、殺されたとする噂が玄昉の死に際して広まっていきました。玄昉の遺体がバラバラになって、興福寺に落ちたとする説もあります。こういった経緯を奈良県にある鏡神社に祟り神として祀られているそうです。また、長崎県北部にも藤原広嗣の怨霊を鎮めるため鏡神社が吉備真備によって作られているそうです。この怨霊信仰は日本においてはじめてことであり、最古のものだとも言われています。

機械があったら是非行ってみてください!

6、ちょっとした語呂合わせ&覚え方

聖武天皇の遷都の順番:恭仁京、難波宮、紫香楽宮の頭文字を取って「くなし」って何度もつぶやいてました。結構頭に入ります。

くなし、くなし、くなし、くなし、くなし

723年の三世一身法:723のと三世一身法のをシンクロさせる。

藤原四子の覚え方:麻呂は名前からして京っぽいのでいいと思います(笑)心配なのは残る三人です。

ムチムチ(武智麻呂)なん(南家)や。その色(式)彩豊かな馬(宇合)は。

これを試験の中でパッとイメージできるように。(北家の房前は思いつかなったので気合で覚えてください。すいません(笑))

何か間違いがあったら申し訳ありません!



        


                      




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