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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 22

第一楽章 シューマンの物語

21、さまざまな別れと実り

 ウイーンを離れ一度ドレスデンに戻ったあと、シューマン夫妻は「楽園とペリ」が演奏されるベルリンに向かいます。
幸いここでは大歓迎を受け、力を得たシューマンは今度こそ立派なオペラを作ろうと「ゲノフェーファ」という作品に本格的に取り組み始めるのでした。

 しかし、そんなシューマンの気持ちを打ち砕くように、6月に生まれつき体の弱かったエミールが1年半という短い人生を閉じてしまいます。
せっかく待望の男の子が生まれたというのに・・・。
シューマン夫妻の悲しみは深いものでした。

   更に悲しい別れは続き、11月に親友メンデルスゾーンが亡くなってしまいます。     半年前に姉で優秀な音楽家でもあったファニーを亡くして、すっかり気落ちしていたメンデルスゾーンは、まるで姉の後を追うように突然旅立ってしまったのです。
 クララは同じ女性音楽家としてファニーとも親しくしていました。

ファニー・メンデルスゾーン

「二人は仲の良い姉弟という以上にお互いを尊敬しあって、心から結びついていたから、天国で寂しくなったファニーがフェリックスを連れて行ってしまったのかもしれないわ。ベルリンの帰りにライプチヒで会ったときは元気だったのに。
あんなに素晴らしい人を神様は何故奪っておしまいになるのかしら。
それにしても、この事でまたロベルトの病気が悪くならないと良いけれど」
 クララの心配は、やはりロベルトのことです。
 
 メンデルスゾーンはシューマンにとって友達以上の大切な存在でした。
普段は穏やかなシューマンもメンデルスゾーンの悪口を言う人は決して許さず、リストやワーグナーともそれで気まずくなってしまったほどです。
良き相談相手としてだれよりも信用していたメンデルスゾーンの死が、シューマンに与えたショックは計り知れないものでした。

 この悲しい知らせを聞いたシューマンは、お葬式に出るために取るものもとりあえずライプチヒに向かいましたが、クララの心配通り、お葬式から帰って来たシューマンは抜け殻のようになり、やつれきっていました。
 「神さま、どうぞ彼をお守りください」
 心配そうに見守るクララの側で、シューマンは悲しみを抱きながらペンをとって「フェリックス・メンデルスゾーンの思い出」という文を書き記し始めました。
 
 もっとも、悪い事ばかりだったわけではありません。
 落ち込むシューマンを慰めてくれたのは、故郷ツヴィッカウで開かれたシューマンを記念する音楽会です。
 彼は故郷の人たちに大歓迎で迎えられ、気持ちも少し明るくなりました。
また、秋にはヒラーがドレスデンを離れることになり、彼の合唱団「リーダーターフェル」をシューマンが引き継ぐことになります。ヒラーとの別れは悲しいことでしたが、合唱団の仕事は面白く、今度は男声合唱のための曲も作るようになりました。

 9月のクララのお誕生日には、シューマンは素敵なピアノ三重奏曲(作品63)をプレゼントしています。

 こうして、悲しみや喜びを織り交ぜながらも、シューマンはドレスデンでの生活に慣れていったのでしょう。病と闘いながらこの後もオペラや劇音楽、歌曲、室内楽そしてピアノ曲と様々なジャンルの音楽を作り出してゆきました。
 もちろんその陰に、クララの優しく行き届いた心遣いがあったことは忘れてはなりません。

 翌年1848年には、また赤ちゃんが生まれます。
今度も男の子でルートヴィヒと名付けられました。エミールを亡くした悲しみに沈んでいた一家に、またにぎやかさが戻って来ます。上の子どもたちはもう学校などへ通う年になり、クララからピアノを習い始めていました。

 そこで、シューマンは子供たちのためにやさしく勉強になり、それでいて美しい曲を作る事を思いたちました。
 「子供たちのアルバム」(作品68)と呼ばれているものがその曲集で、中には「楽しき農夫」「勇敢な騎士」「初めての悲しみ」などがあり、今も世界中の小さなピアニストたちの素敵なレパートリーになって愛されています。 
 当時も、この楽譜はとても良く売れてシューマン家の家計を助けました。
この楽譜にシューマンは68条からなる小さなピアニストたちへのアドバイスを載せています

・まず音感を養う事。小さいころから色々な音を聞き分ける訓練をしましょう
・できるだけ人と合奏しましょう。歌の伴奏もしましょう
・できるだけ謙虚に
・合唱をしなさい
・人生の勉強をしなさい。他の芸術や学問にも目を向けましょう
・天才を理解できるのは天才だけです
・勉強におわりはありません

 どれも、今でも十分通用する素晴らしい言葉ばかりですね。

 1849年の初めには長いあいだ手がけていたオペラ「ゲノフェーファ」(作品81)をついに完成させ、念願のオペラ作曲家の仲間入りを果たします。 
彼は自分の人生の中でも、一番充実した日々を送っている事を実感していました。

 しかし、この頃からドレスデンの町は騒がしくなってきます。
 前の年1848年にまたパリで革命がおこり、その革命の火の手はすぐにドイツに燃え広がりました。ヨーロッパ各地で、人々は再び自由な権利を求めて立ち上がり始めたのです。
 3月にはベルリンで市民と軍隊が衝突にて1000人からの死者がでます。
ドレスデンの人たちも、この動きに刺激されて立ち上がろうとしていました。
その中心にいたのがあのワーグナーです。
音楽家でありながら、情熱的な彼は革命の中心人物になろうとしていました。

 そして1849年5月3日。
ドレスデンにも警報が鳴り、銃声が響き渡りました。
ついに革命の火はドレスデンにもやって来たのです。

 たまたま、この日郊外に出かけていたシューマン夫妻が、急いでドレスデンに戻ると、町にはバリケードがうずたかく積み上げられ、この地方の王様も、大臣も貴族も逃げ出した後でした。そのバリケードの中心で市民たちに演説をしているのが、ほかならぬワーグナーだったのです。
 その革命を抑えようと、今度は軍隊が街にやってきて、街は大混乱です。

「奥さん、ご主人はどこですか?この街が危ない。
男はみんな兵隊になって街を守るんだ。お宅のご主人にも来てもらいたい」
シューマン家にも男たちが詰めかけてきました。

「主人は留守です」
クララはきっぱりとそう男たちに言いました。
「本当か?じゃあ探してきてもらおう」
男たちも食い下がります。
「仕事で遠くに行って帰れなくなっているんです。
 子供たちが怖がるからもうお引き取り下さい」
クララの強い態度に、男たちも渋々引き下がります。
「今日はこれで失礼しますが、ご主人が帰ってきたら必ず知らせて下さい。
今度は家の中を探させてもらいますよ」

 ロベルトが兵隊に?とんでもありません。
 この騒動の直前にお兄さんのカールを亡くしたシューマンは、いつもにまして不安定だったのです。
 クララは夜の闇にまぎれてマリエとシューマンを連れて街を抜け出し、駅に急ぎます。列車を乗り継いで、遠くマクセンという所に住む友人の家にひとまず落ち着きました。
 しかし、闘いは激しくなるばかり。
街では革命に加わった人たちが次々と殺されていると聞きます。
知人に預けてきた下の子どもたちはどうしているのか、クララは居てもたってもいられません。この時、クララのお腹にはまた赤ちゃんが居たのですが、それにもかかわらず勇敢な彼女は、血の匂が満ち、大砲の音の響くドレスデンに引き返し、4人の子どもを連れてまたマクセンに戻って来ました。

 騒動は数日で収まり、夫妻がドレスデンに帰ると、街は無残に荒れ果てていました。ヴァーグナーが活躍した歌劇場も焼かれ、革命を指導したことで逮捕状が出たヴァーグナー本人は、すでにヴァイマルに居る親友・リストを頼って逃げてしまった後でした。
 幸い何とか落ち着きを取り戻した街で、クララは6人目の子ども、フェルディナントを無事に産むことができました。
 
 革命の大騒ぎのなか、シューマンはひたすら作曲に励んでいました。
彼はきっと、音楽の中にある平和で穏やかな世界に逃げていたのでしょう。
こんな騒動の中、合唱曲やピアノ曲などを次々と作曲しています。
 そんな落ち着かない状況のなか、秋にはあのショパンが亡くなったという悲しい知らせが届きました。
 ショパンには特別な思いがあった夫妻のショックは大きく、シューマンは何とかドレスデンで追悼式を行おうと考えましたが許可されませんでした。

 そして迎えた1850年。
ようやくあのオペラ「ゲノフェーファ」がライプチヒで初めて上演されることになり、リストやヒラーなどの友人や親せきが駆け付けました。
その中にはシューマンの恩師・あのクンチェ先生の姿もあり、シューマンを喜ばせました。しかし残念ながら今回は、前作のオペラ「楽園とペリ」のように成功したとは言えません。

 夫妻はこのままこのドレスデンにいても仕方なのではないだろうか?と考えるようになっていました。
 街は荒れ、人々は退屈で、シューマンに特別な仕事があるわけでもありません。
 そんな時、デュッセルドルフという街の音楽監督をしていたヒラーが、今度はケルンに新しい仕事をみつけたので、また自分の仕事をシューマンに引き継いでもらえないかと頼んできました。
 仕事の内容はオーケストラと合唱団を指導して定期演奏会の指揮をすることで、ヒラーの前はメンデルスゾーンが勤めていました。
 安定した仕事があることは家族の増えたシューマン家には魅力です。
さらに自分の思いのままになるオーケストラや合唱団があることは、作曲家としても望ましいことでした。
 そこで、一家はドレスデンを離れて、ライン川の流れる美しい街・デュッセルドルフに引っ越すことにしました。

しかし・・・。

「デュッセルドルフに精神病院があるのがぼくには気になって仕方ない」

シューマンは何故かそんな不安を抱えていたのです。


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