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書評:ここから始まったもの、おそらく多数|俵万智『サラダ記念日』河出文庫/1989.

歌人・俵万智の第一歌集。俵万智は、1962年大阪府生まれで、その後福井県で育つ。1985年に連作『野球ゲーム』で第31回角川短歌賞次席、翌年1986年に連作『八月の朝』で第32回角川短歌賞を受賞。さらにその翌年、これらを収録した本歌集を刊行。大ベストセラーとなる。文庫版は1989年に発刊。

現代口語短歌といえば、今でもこの歌集の名を挙げる人が大半なのではないかと思われるほど有名なこの歌集を、しかし私はこれまで未読だった。

読んでみての第一の感想は、「そうか、未だにこの歌集の影響は強いのだな」ということだった。

巻末収録の歌人・佐佐木幸綱による跋にも記されてるが、口語短歌自体は、昭和初期や戦後にも多く作られており、この歌集が世に出た時点でも目新しいものではなかった。しかし、佐佐木幸綱も書いているように、口語でありながら定型にちゃんとはまるような文体の確立(特に語尾の処理)、これがおそらく本当に新しかったのだと思う。

そこで、例えば、発刊当時もマスメディアなどで取り上げられていたこの歌を、改めて読んでみる。

愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う

当時は、その軽さ(ライトヴァースであること)や少しだけ刺激的な内容に注目されていたと思う。が、これ以降の多くの現代口語短歌を読んできた今、この短歌をみてみると、ごく最近の(やもするとありがちな)口語短歌の文体を思い出さずにはいられない。

逆にいえば、ここで確立された文体の恩恵を、私たちはずっと得続けている、ということだ。

文体のみならず、その描かれる内容や視点もまた、今となっては馴染みのあるものだ。生活に根ざし、視線は近くて、あっけらんとしつつ、どこかに孤独が潜む描写。例えば、この歌。

夕焼けてゆく速度にてコロッケが肉屋の奥で揚がり始める

もちろん、流石に1980年代後半的というか、バブル経済真っ只中的というか、「あの頃」の空気感を多く孕んでいる短歌もいくつかみられる。

パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原

が、基本的には、最近読まれた現代口語短歌と言われてもさほど違和感はない。

言い換えれば、現代に生きる私たちが今でもまずは超えなければいけない歌人そして短歌、ということになるのではないか(もちろん、新規性だけが短歌の価値ではないだろう)。

さて、そんな歌集だが、思わぬところに「この時代ならではのもの」が現れてしまい、「古さ」を感じさせるものになっている。それはしかし、文庫版の解説で川本二郎が懸念していたような「カンチューハイ」「激辛のスナック菓子」「ハンバーガーショップ」「マクドナルド」「サザンオールスターズ」と言った当時の食文化や風俗を示す言葉ではなかった(どちらかといえば、これらは今でも通用している)。

それは「手紙」であり「電話」であった。

手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛
鳴り続くベルよ不在も手がかりの一つと思えばいとおしみ聴く

1980年代後半、当然のようにLINEもメールもなく、スマホどころか携帯電話もなく、ともすれば留守番電話すら付いていない電話機も多数あった。恋人とのやりとりは、手紙もしくは(固定)電話しかなかった。

やりとりに時間がかかる手紙、もしくは、同じ時間にお互いの自宅にいない限りは声のやりとりができない固定電話。そしてそれらを前提として描かれる景色。前提を知らないと読み解けない景色。

ここにあの時代特有の空気感を読み取り味わうか、もう意味がわからない歌としてあの時代に置いていってしまうか、それは人それぞれだろう。

最後に、この歌集の中で私の一番好きな短歌をあげておく。穂村弘の『はじめての短歌』の「共感と驚異」の解説でも引用されている短歌。口語であって定型にきれいに収まる文体、現実と非現実のはざまのような描写とそこに生まれる共感、啄木あるいは近代短歌へのリスペクトも感じる内容。

砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね

当時のこの歌集が話題になる中で、これがあまり引用された記憶はない。だからこそ、こういう短歌こそがこの歌集の中で長く長く生き残って行くのかもしれない。

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追記:実はこの有名すぎる歌集を読む前に、私はパロディの方に先に触れてしまっていた。そして今回、本家を読んで、改めてそのパロディ作品のクオリティの高さを痛感した。そのパロディの作品名は、筒井康隆の『カラダ記念日』。近日中にこれについても書評を書くことにします。

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