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生きることの「手触り感」を取り戻すー。北海道東川町のフォルケホイスコーレが教えてくれたこと

今日は、昨年夏(2021年7月)に参加した北海道東川町のフォルケホイスコーレのことを綴ろうと思います。たった8日間の滞在だったけれど、そこには心を開くには十分な余白があって、リモート生活の中いつの間にか窮屈になっていた自分をゆるませて、もう一度誰かと対話したいと思えるようになった時間でした。

ちなみにわたしが参加した回のテーマは「Life -暮らし方と生き方-」。プログラムの軸にもなっている「衣食住」は、生きることにとても近いことなのに、意外と見落としがちなもの。コロナ禍で生活の変化が起きた中で、もう一度私にとっても生活を見直すきっかけにもなったし、ぜひもっと多くの人に知ってもらえたらいいなと思ったので、少しずつ書き残したいと思います。

【衣】身につけるものは、自分のひとつのアイデンティティ

【衣】の授業は、東京にお店を構えつつ、東川町に移住されたテキスタイルデザイナー・セキユリヲさんによるマスク制作。ちなみにセキユリヲさんも実際にフォルケに行かれた経験があるんだそう。

「衣服ってやっぱり自分の肌に触れて気持ちのいいものであってほしいんです。衣服って日々自分の身体を纏っているわけで、それは一つの自己表現ですよね。その人のアイデンティティを表すものだと思います」

「今皆さん毎日マスクを身につけていると思いますが、そのマスクに心地良さや自分らしさを感じていますか?マスクってすごく顔に近いし、人にとってはすごく長く身につけているものなのに意外と無頓着な人が多いんです」

そう言われてハッとして。薬局でまとめ買いしたマスクの中にわたしらしさなんてもちろんない。機能性で言えばもちろん高性能なものがいいのかもしれないけれど、この感覚は忘れないようにしたいなぁと。

そして、森で拾ったものや消しゴムに好きな色のインクをつけて、スタンプを押して、手縫いしたマスクはどれも個性的!マスクひとつなのに、その人が語る言葉以外のその人らしさが見えた気がして、とても素敵な時間になりました。

人よりも、マスク撮影会が開催される

【食】自然のものさしを知るということ

【食】は選択授業も含めて2つ。ひとつは木こりのあら屋さんのスプーンづくり。最初の説明で「考えながらではなく、感じながらつくる」と話されていたのがとても印象的でした。

はじめに自分が削る木を選ぶのですが、そこにもその人らしさが表れていて。あら屋さんが話されていたのは、木は一つ一つ個性を持っていて、人間ともそれぞれ相性があるということ。わたしが選んだのは「桜の木」だったのだけれど、それと一緒にあら屋さんがくれた言葉もなんだか嬉しかったのです。

「桜の木は心がすごく純粋だから、周りが集まってきて桜のために動いてくれるんです」

他にも、楓や延寿・ナラやハルニレの木があったそうで、それぞれの意味を教えてくれたのですが、「サポートの木」「周りを元気にする木」「リーダーの木」などそれぞれ意味があって、きっと選んだ人と何かが響きあっているのだろうなぁと感じました。

「あなたのイメージと、木の個性を重ね合わせながらつくるんです」

最初は「こんな風にしたい」と思って始めるのですが、作業が進めば進むほど、木には削れない部分や削られたい方向があることに気づいて。だんだんわたしが木を削っているというより、木と対話しながらわたしのカタチを掘り出しているみたいな気持ちになってくるのです。

ものづくりって人間だけの作業ではなくて、素材と「共に」つくりあげるものなのかもしれないなぁと思ったのでした。

木が、スプーンやバターナイフになる

作業の途中でみんなで森にお散歩に行ったとき、あら屋さんがいろんな話をしてくれて。森は人間が入ってきたことがわかるから、森に入るときは必ず挨拶をするんだそう。あら屋さんは木こりでもあるので、「木」のその一本一本をひとりの人のように見ているのかもしれないなぁと。

「木を切るときにはこの木は後何年生きるだろうか?と考えるんです」

ここで流れる時間は100年単位、いやもっとかもしれない。時間のものさしは一つではないし、時間というものをもっと長いスパンで見てみることって大事だなぁと。あら屋さんの話を聞いていると、わたしたちは森を守る側ではなく、本当は森に守られているのかもしれない、と思ったのでした。

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もう一つは、あら屋さんの今の生活にも影響を与えたという、テリーさんのお庭にお邪魔しました。この日のテーマは「パーマカルチャー」。

テリーさんは、タネをもらったらそのまま置いておいて、芽が生えてきたらそのまま活かしておくんだそう。コントロールしないこと、手をかけすぎないことの大切さを教えてもらった気がしました。植物は本来、自分たちで育つ力を持っているーーーなんだか教育みたい。

農園で新しい種を植えて、今日のお昼の野菜を収穫する。

「どっちが北かわかる?太陽を見れば方角がわかるのよ」

たしかに昔理科で聞いたことあるかもしれない…けれどわたしはすぐ答えられない。植物たちはちゃんと太陽の方角をわかっていて、今いる環境でちゃんと生きているのに。わたしはこの地球に住んでいて、自分の立ち位置もわからずに、どこに向かっているのだろう。都会に住む中で、わたしはいつの間にか自然のものさしを失いつつあるのかもしれない…と実感させられたのでした。

色鮮やかで、すごい生命力

【住】本当にいいものを、長く使う

【住】は、北の住まい設計社さん訪問。洞爺湖サミットに円卓と椅子を提供した家具屋さんだそう。たしかに安くはないけれど、デザインはもちろん美しいし、何より本当に長く使える「いいもの」をつくっているのだなぁというのが話を聞いていて伝わってきました。

「わたしたちの家具は、どの職人がつくったもので、それが今どこにあるか全部わかります。その木がどこから来たかもわかります」

「100年以上使って欲しいと思っています。なぜなら次の木が育つまでに100年かかるからです」

廃校になった小学校を使った工房は、とてもキレイで。カタログも撮影もグラフィックデザインもライティングもすべて自社で行っているそう。

「空気感みたいなものを盛り込みたいんです」

ここまで授業を重ねてきて思ったのは、自分でつくることがものを大事にする気持ち、自然を大事にする気持ちにつながっていくんだなぁということ。つくり手にならなくても、その想いを知るだけで、ものとの向き合い方や世界の見え方は全然変わってくる。

わたしたちの生活を囲む色々は、ほとんどのものがどこからきたのかわからない。環境問題やSDGSという言葉の前に、自分の生活の手触り感を取り戻すことからはじめられることはたくさんありそうだなぁと思ったのでした。

【対話】答えのない「問い」があるから深い話ができる

余白があるから、自分の感情や素直な思いに気づくことができる。
余白があるから、誰かの話を心から聞くことができる。

とはいえ、「対話」と言われても何を話したらいいのかわからないという人は多いと思うのです。わたしたちは普段答えを出すための「会話」ばかりしていて、人との会話の中に結論を求めてしまいがちだけれど、本当は「モヤモヤこそ場に出してみる価値がある」もの。誰かと分かち合うことで新しい答えに出会ったり、助け合えたりするものなのかもしれません。

話を聞いて、言葉を贈る

「もっと、周りの人に自分の人生に上手く関わってもらえたらいいのに」

仕事は嫌いじゃない。けれど、仕事モードのわたしは全部自分でやろうとしてしまう。そして、フォルケでゆるんだ心とこのお仕事モードの切り替えが、わたしにとっては想像以上に難しかったのです。

もっと力を抜いて好きなことで誰かの役に立てるんじゃないか?
もっと苦手な部分は誰かに頼ってもいいんじゃないか?

最後にもらったメッセージに、「太陽みたいな人」「ひまわりみたい」と書いてくれた人がいてすごく嬉しかったのと同時に、わたしが自分らしく生きていることが、誰かを照らす力になれたらいいなぁとぼんやり思ったのでした。

【番外編】今自分が感じていること・思うことに目を向けてみる

近くのカフェで大宮エリーさんの本を見かけて、何気なく手に取ったらすごくそのときの自分に響く内容で。

「誰かに伝えるために思いはある」
せっかく生まれた思いだから
それは確認してもらったほうがいい
誰かに 感じてもらったほうがいい
誰かと 共有したほうがいい
誰かにその思いの存在を
認めてもらった方がいい

ちょっとした思いや感情って、忙しい毎日の中でどうしても流してしまいがちだけれど、「今わたしはこういう風に感じているんだな」と感じて、その気持ちを共有することって大切なのだなぁと。フォルケホイスコーレは、答えのない対話ができる場所だからこそ、このメッセージが響いたのかもしれないけれど、わたしが今もすごく大切にしている本のひとつでもあります。

経験や誰かからもらった言葉が、その人にものなるためには時間が必要

実際にここで過ごしたのはたった8日間だったけれど、東川の優しい景色やコンパスで流れる温かい時間で過ごしているうちに、日々の忙しさのなかで忘れていた「自分が自分であるための時間」を取り戻したような気がしました。

それは木こりのあら屋さんが教えてくれた「木や森の時間」だったり、テリーさんの「命が自由に育つのに任せること」だったり、北の住まい設計社さんの「次の木が育つまでの100年使ってもらえるものをつくる」というものづくりだったり、出会った人たちの姿勢や語られる言葉から、いかに自分の「ものさし」が短いものだったか知ったことが大きかったなぁと。

わたしはこれまで、インプットとアウトプットばかり考えていたけれど、本当はその隙間に大切な「心の発酵」みたいな時間があって、そこにこそ「自分らしさ」があるような気がしています。学んだこと・体験したことをそのまま伝えるのではなく、自分というフィルタを通して伝えていくこと、そこには必ず自分というものが乗っかると思うのです。

これは実は、東川で過ごしたときには気づいていなかったことで。1年経って振り返ってみてはじめて、その経験がより腑におちて、より自分のものになっていたことに気づいたのです。

と、ここまで書いてきて、想像以上に長くなってしまったことに気づくという笑。書きたいことはまだまだたくさんあるのですが、また少しずつ思い出しながら、綴っていこうと思います。

今日もお読みいただき、ありがとうございました。


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