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死と、意味と、豊かさと。


「無」



死んだら「無」だ、

なんてよく聞くが。一生懸命生きて、最期にはたったの1文字でまとまってしまう人生ってなんなのだろうな。だからと言って、死後の世界を信じるほどに、生きることに絶望してばかりじゃあない。

ひとは、「死」について考えるときだけ「死」に恐怖する。へー、では「しあわせ」になりたいのであれば、「死」などは考えない方が良さそうなものだ。なんだけど、「死」に恐怖することは「豊かさ」には欠かせないものだと踏んでいる。

その通りであるとすれば、「しあわせ」と「豊かさ」は全く別の性質であり、ぼくは「しあわせ」ではなく、「豊かさ」を求めているのだろう。その理由は、きっと「死」についての思考を深めることで、見えてくるはずだ。

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ゴッド・ジョブズ

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「死」についての認識は信仰に由来する。正直ぼくは「死」が全くわからないし、「死とは」みたいなことを本当はもっと言い周り、多様なご意見を収集したいが、お説教をされる危険性が高いので、「死」に関しては、分かっている風でいるのが賢明である。

「神」の役割とは、「死」の意味を変えてしまうことであると言えます。「神」をみていらっしゃる方には「死後の世界」が有り、そうでない方には「死後の世界」も「無」であるようで。

「死」と「神」はとてつもなく密接な関係にある、というよりも、イコールである、と言えないだろうか。つまるところ、ひとは、生きている限り「人」であるが、「死」することで、「神」へと昇華し、「概念」化するのではと言いたいのです。

たとえば、故スティーブジョブズは、頻繁に「思い出される」わけですよね。そりゃあもう、Appleについて話題になる度に、世界中から、出会ったこともない無数の赤の他人によって、「思い出される」わけだ。

もしかすると、その時、真に「存在している」なんて言えるのではないか、と思うのだ。なぜそう思うかと言うと、人生の短さに関係しているのです。ひと、一人ひとりはあまりにあっけないというか、脆すぎるとは、思いませんか、せっかく、想像と「創造」という摩訶不思議な能力を持っているにもかかわらず、寿命は平等に短い。iPhoneという偉大な発明をしたとしてもだ。

死後の世界が「無」であるとしたら、人生は空虚そのもの。生きる意味も、創造する意味も「無」い。しかし、死後も生存者の心の内には「存在」するわけで、それは無視するには、あまりに意味深な現象だと思うのです。

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生きる意味

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面白いのが、ジョブズは生前「嫌われ者」だったという点。しかし、ひとが彼を思い出す時、人格はどうでも良くて、「何を成し遂げ」「何を残したか」しか見ない。

ひとは、「嫌われる」ことを恐れる。大勢から「好かれ」、「楽しく」「しあわせに暮らす」ことを望む。だけれど、その人生は、たぶんあまり頻繁に、広範囲に、長期にわたって思い出されることはない、のではないだろうか。

そこには「孤独」がなく、「絶望」がない。ジョブズが「しあわせに暮らす」ことを求めていたとしたら、ぼくは今とは違うスマホを使っていると思う。

「しあわせ」はいいね。どうしようもなく惹き込まれてしまうよ。穏やかで、あたたかくて、気持ちよくて。だけど、それだけだ。コタツにいる時のように、そこにいることに固執してしまう。身動きが取れなくなる。みかん食ってテレビ眺めてゲラゲラ笑うだけ。つまらなくなる。そんな日々は、「しあわせ」であって「豊か」じゃあない

「豊かな人生」には、緊張感とリズムがある。ヨロコビとカナシミ、しあわせとふしあわせ、安心と恐怖。希望と絶望、押し寄せる波のようなリズムに、サーファーのごとく、絶妙なバランス感覚でウキウキと乗りこなす。落ちれば「死」であろうとも。

その最中、「創り」「残す」こと。アートでもいいし、子でもいい。死後に思い出されるための種を蒔き、伏線を敷くこと。あるいは、人類の発展に貢献し、母数を増やすこと。ひとがいなければ、思い出してくれる(存在できる)場所もなくなるわけだし。「無」に向かって生きることに「意味」を見出すんだしたら、そんなところじゃないかなぁ、と思いながら、noteに「残す」のです。

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