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すべてを引き受けて、今を生きる

「これくらいの絵画は有名じゃない?」
あー、この人はご両親が教養のある方々だから、自然とそういう会話が生まれて、そこに関心を持って、生きてきたんだ。

「何ができるかが大事でしょ。」
この人が存在承認の大切さを1ミリも理解してくれないのは、存在承認の感覚を失った経験がないからだ。

「自分の身の上を嘆いても仕方ないでしょ。」
嘆かなくてもやっていける程度だからじゃないか。


でも、こうやって、あなたの今までと私のこれまでを振り返って、今あることの原因を探して、比較して、「それに無自覚になれない私」に落胆して、「それに無自覚のあなた」の無自覚さに落胆して、「あー、やっぱりこんな社会の不条理がすべてを生み出しているんだ」と社会の今を嘆き苦しんで、何かしてみようとして、でもできない自分に出会って、また同じことを繰り返して。

一方で、
「おうちがちょっと貧乏で、体操服買えなかったんよね。」
「いいよな、女は荷物持たなくていいし、それでチヤホヤされるから。」
「ちょっと人と関わることに障害があってさ。」

何かできるようになることは、社会構造の中で、たまたま私にその権利がひらかれていて、その権利を行使して、状態変化するということだ。その権利すらひらかれていない人がこの世界にはたくさんいるのに、私はそれを引き受けて良いのか。それをしないこと、その人たちと共にあろうとすることに意味があるのではないか。だって、できる側になった人たちが、なんだかんだ言ってもうるさいじゃんか。あなたは恵まれたからでしょ、ってなるじゃん。

でも、その場合の私は恵まれたのにやらなかった、正真正銘の努力不足人間ではないか。
結局そんなことを考えて、それができるようになるまで努力することから逃げているだけではないか。

結局、嘆くだけで、何もしていないのが私ではないか。


確かにあなたは恵まれたんだけど、でもそこから努力してきたことは間違いない。それによって、たくさんの「あなたのできること」を社会に還元しているんだ。仮に社会の不条理に無自覚であったり、諦めたりしていても、その人の方が意味あることをなしているではないか。

私は中途半端に恵まれて、勝手にひねくれて、嘆いているだけのくそ人間ではないか。

それでも、
私は社会の不条理にかなり敏感になってきた。

個人的なことは社会的なことであり、政治的なことである。

このひとの背景にはたくさんの痛みがある。

このひとと社会の間には大きなハードルがある。

私とあなたは常に関係し合っている。

あれこれに気づくことができるんだ。もちろん気づいていて、なおかつ活動的な人はたくさんいる。
でも、そこと比べたって仕方がない。これは私の生き方の話である。

社会のたくさんの痛みに気づいて苦しみながらも、何もできない自分に出会って苦しんで、また何かができる機会や権利に恵まれる自分の特権性に苦しんで、嘆くだけならば、私にとって幸せなことではない。ずっと苦しいんだから。

ならば、こんなくそみたいな自分も引き受けて、私の恵まれた部分もそうでない部分も、時に特権となる面も差別される面も、悲しみも怒りも醜くてたまらない部分もすべて引き受けて、社会に返すだけではないか。

実際、何もかももうたくさん与えられてきたんだ。
それが運が良くて、偶然に過ぎずとも、与えられてきたんだ。そんな運命を恨み、それを受け入れない選択に留まっていては苦しいだけではないか。
どれだけ原因を探っても、その運が与えられる/られない側になったのは、たまたまでしかないんだから。
理由なく、私に対して、存在してしまった/しなかったのだから。
運が与えられる人と与えられない人がいることが苦しいのであれば、それをうらむのではなく、その社会的な不条理、構造的不正義を正すために、闘おうではないか。

私が目指すべきはこれであるはずだ。

何もかもすべて引き受けて、私は今できることをやるんだ。生きるんだ。

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