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「違和感」に素直になる

今ほど情報や知識が玉石混合な時代はないのではないかとふと思う時がある。一昔前の本は限られた知識人や高い位の人たちだけが執筆することを許された特別なものであったから、本は権威あるものであり、「知」の代名詞でもあった。

しかし、今では本は誰でも気軽に出せるようなものになり、1日に200冊以上の本が新刊として出版されている。それに加えて、インターネットによって、誰でも気軽に発信することができるようになり、ネット上には今まで一般人には触れられなかったような最高に質の良い情報から嘘の情報まで幅広い情報で溢れるようになった。

そのような時代においては、昔のように「質の高い情報」を学ぼうと思って本を買うという選択もどこか違う気がしてしまうし、ネットで情報を調べるとなると当たりを見つけるまで探し続ける手間が発生してしまう。

つまり、現代人は「知識」の面においての絶対的な拠り所がなくなり、知識の迷子になってしまっている状態だと言えるのかもしれない。それ故、本を買うときなどはカスタマーレビューが気になるようになったし、星3以下とかになると買いにくいし、信頼できる人からオススメされた本の優先度は自ずと高くなっていった。

体が必要な情報を勝手に拾ってくれる

絶対的な知識の拠り所がなくなった結果、人々は常に日常生活の中で「役に立つもの」「自分の為になるもの」ばかりを探しているような感じがする。それは、できれば即時的な効果を持つものが良く、分かりやすいものが好まれる。

しかしながら、僕の経験的にはそのような即時的で分かりやすいものよりも、自分の中で何か引っかかったもの、良い気持ちではないかもしれないが違和感や底知れなさを感じたものが後々非常に深い学びになることが多く、自分の大事な血肉になったことが多い。

「意味わからん」と思うものであったり、「違うな」と感じるものであったり、「キモっ」と拒絶するものの中に自分自身を知ることができるヒントが隠されており、それらから得られた知見をもとにして何か良いものを作れるきっかけになることも少なくない。

意味がわからないことや違和感は「負」の感情のように感じられてしまうが、実は感動などの「正」の感情などと同じくらい自分にとっては有意義なものである。

「好き」の反対は「無関心」であり、「嫌い」は何かのきっかけで「好き」に転じやすいように、自分が感じた違和感は何かのきっかけで深い学びになりやすい。自分の体がそれに対して違和感を感じているということは、それが自分にとって価値があるものだと自分の体が判断しているから起きるのであると思う。

日常生活の中で「役に立つもの」「自分の為になるもの」ばかりを探してしまうのはしょうがないことだが、もう少しだけ視野を広げて無駄を許せる心の余裕を持てると長期的に見て価値あるものと出会いやすいのかもしれないと最近感じさせられた。

使い古されている定番の言葉ではありますが、「世の中に無駄なものはない」「自分に気持ちに素直になる」というのは溢れるほどある情報に日々悩まされ続けている現代人を少しだけ楽にしてくれる知見を与えてくれると思います。

結局、自分の体が潜在的に欲している情報を勝手に拾ってくれるので、どんなに頭で考えるよりも直感的に何を感じたものの方が自分にとって価値が高いことがあるのかもしれない。

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1997年の日本生まれ。