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【現代語訳】 徳川慶喜公伝 大政奉還 その1

昨年度の大河ドラマ「青天を衝け」は、日本の近代化を支えてきた旧徳川幕府の幕臣の活躍を描いた傑作ドラマでした。主人公は渋沢栄一で、その活躍ぶりたるや、日本のインフラに関わるほぼ全ての事業に関わっている感じで、そのバイタリティは驚くばかりです。

一方、渋沢栄一が仕えていた江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜も準主役の扱いでした。これまで、「大政奉還で朝廷に政権を返上した人」「鳥羽・伏見の戦いでは自軍を見捨てて東京に帰った人」という、どちらかというと「逃げ腰」イメージを持っていましたが、ドラマを見て印象が変わりました。混迷極める幕末において、日々移ろう政局を見ながら、その場その場で最善と思える判断をされていたんだなと感じました。

最終回間近、徳川慶喜の功績を世に伝えたいと考えた渋沢栄一が、徳川慶喜に自伝を語ってもらい、書物に残すシーンが出てきます。徳川慶喜の行動は、真意が見えづらいというか、大政奉還にしろ、鳥羽・伏見の戦いでの離脱にしろ、「なぜそんなことをしたのだろう」ということが多々あります。そうした疑問について、その自伝を読めば何かわかるかもしれないと思い、今回「徳川慶喜公伝」(平凡社 東洋文庫)を買って読んでみることにしました。

…が、そもそもこの本、町の本屋で売られていないというか、Amazonのオンデマンド印刷でしか手に入らないようです。「近代日本のインフラ構築に多大な貢献をしてきた渋沢栄一が、主君である徳川慶喜の自伝をまとめた本」という、価値の高そうな本なのに今はほとんど手に入らない…かつ、文章が昔の言葉使いなのですらすらとは読みづらい…ので、いっそ自分で現代の言葉に翻訳してみようと思い立ちました。いずれ、光文社古典新訳文庫あたりから、立派な翻訳者さんが翻訳して出版してくれないかな…などと願いつつ、まずは、自分で読みながら現代語訳してみます。

以下の前提をご承知の上、お読みいただければ幸いです。
・底本は、「東洋文庫107 徳川慶喜公伝4 渋沢栄一著 平凡社」です。
・徳川慶喜公伝は1巻〜4巻までありますが、大政奉還や鳥羽・伏見の戦いについて書かれている4巻を対象としています。
・その中でも、大政奉還〜鳥羽・伏見の戦いを経て東京に帰るまでの、第二十七章〜第三十二章まで(196ページ分)を現代語訳する予定です。
・歴史家でも何でもない素人が現代語訳しています。
・現代語訳をきっかけとして、より多くの人にこの本に興味を持ってもらい、叶うことなら平凡社または他の出版社から復刊されることを願っています。

では早速、チャレンジしてみます!
まずは「第二十七章 政権奉還」から。

第二十七章 政権奉還 その1

薩長の連合の動きは慶応元年の春に始まり、慶応2年の冬にはお互いに修好の使者を交換して連合が成立したけれども、どうやってこの連合を運用すべきかは具体的に決まっていなかった。ただ、慶応3年5月、幕府が島津大隈守などの意見を受け入れずに兵庫を開港し、長州を処分することを下々に布告すると、薩摩の人々の不平が極まり、薩摩、大隈、日向の三州で倒幕の先駆になろうと決心した。
以前から薩摩邸に隠れ住んでいた長州藩士の品川弥二郎と山県狂介(山県有朋)は、この動きを長州藩の役所に伝えようとした。

島津大隈守はその2人に、「幕府が正しい状態に戻る気配がないため、自分は一層皇国のために力を尽くそうと思う。近いうちに西郷吉之助を遣わせて、長州藩と議論することがあるから、あらかじめこのことを藩主たちに伝えてほしい」と言った。小松帯刀も、「幕府の悪巧みは通常の手段で矯正できそうにもないから、薩摩と長州の二藩が協力して大義を天下に掲げたいと思う。そのために、長州藩に評議してもらいたい」と言った。品川と山県の2人が、「戦略やはかりごとは前もって決めることはできないと思うが、一応、薩摩藩の意見を聞いておこう」と言うと小松帯刀は、「まず朝廷の警護を第一として、その後勅命を奉じて幕府のこれまでの罪を追及し、朝廷の基本を立てるのだ」と答えた。品川と山県の2人が奮起して長州藩に向かったのは、6月22日のことだった。

これより前に、土佐藩士の乾退助(後の板垣退助)は、前藩主である山内容堂の態度に憤慨し、同じ土佐藩士の中岡慎太郎、谷守部、毛利恭助たちと密に議論していた。薩摩と行動を共にしようとして、小松帯刀と西郷吉之助に、「土佐藩の重要な地位の人たちは皆佐幕に傾いていて、古い習慣を改めずにその場しのぎに終始しており、我々は憤りを抑えることができない。薩摩藩に対しても土佐藩は面目を失うことが多い。だが、我々の同志は少なくない。今、藩を脱して倒幕の師に加わろうとしており、あなた方がもし我々の真心を理解してくれるなら、願わくは同盟を結びたいと考えている。私に約1か月与えてくれるなら、土佐に帰って同志を集め、檄文が届けば期に応じて上京しよう。慎太郎、守部、恭助たちは京都に留まって互いに謀議しよう」と告げた。西郷吉之助は大いに喜んで、「あなたの話は、近頃なかなか聞かない愉快な話だ。あなたが請うている同盟を結ぼう」と言うと、皆これに同意して、ここに薩摩藩と土佐藩の間にも倒幕の同盟が成立した。乾退助は、同志を集めるため、5月27日に土佐に向かった。

このように薩摩、長州、土佐の三藩が倒幕を企てる一方で、必ずしも倒幕を要件としない王政復古論を唱える者がいた。土佐藩の坂本竜馬である。竜馬は今年の春、後藤象二郎が藩命受けて長崎に行ったときに象二郎と会見し、その勢力と人望に期待して藩の役所を動かそうとした。象二郎も龍馬を利用して土佐藩の振興を期待した。2人は胸襟を開いて親密な付き合いをした。竜馬は以前より、「土佐藩は幕府に対する関係上、特別の事情がなければ討幕の行動を起こすべきではない。容堂公の存命中は特に難しい。たとえ討幕の行動に出たとしても、幕府の海軍力は決して侮ってはいけない。もし軽率に行動して一歩を踏み誤れば、幕府の欠点を暴こうとして返ってこちらの欠点を曝け出すことになりかねない。であれば、討幕以外に土佐藩を振興する策を考える必要がある。正々堂々と幕府に説いて、政権を朝廷に奉還させるべきだ。それができない時に初めて兵を用いても遅くはない」と思っていた。竜馬はこの説を象二郎に勧めて、公議政体論を幕府に説き、それによって政権を朝廷に奉還させようとした。竜馬は脱藩の身なので、竜馬の意見としてそれを行うのではなく、秘密にしておいて、象二郎の意見として行うことを勧めた。これは、薩長二藩の討幕論に対抗して、それとは別の主義主張を打ち立てた。象二郎はこのことを喜び、その説を容堂に勧めようとして、竜馬と共に6月13日に入京したが、容堂は既に土佐に帰国した後だった。

後藤象二郎は時勢が切迫していることを見て、政権奉還のことを容堂の名で幕府に建白しようと、まず京にいる土佐藩の重役の同意を得た。ことのき竜馬が草案を作った「八策」は、政権奉還後における公議政体を創設する案だった。そこには、「天下の政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すようにすること。上下議政局を設け、議員を置いて政治上の多くの重要な事柄に参与させ、公平な議論によって決めること。公卿、諸侯、および天下の人材を顧問とし、官爵を与え、有名無実の官職を取り除くこと。外国との交際は、広く議論して、新たに妥当な規約を立てること。古来の律令を折衷し、新たに永遠なる大典を選定すること。海軍を拡張すること。御親兵を置き、帝都を守衛させること。金銀や物価は、外国と同じようにする法律を設けること。以上の八策は、天下の形勢を察し、天下の万国に要求することであり、これを捨てて他に急務のことなどあろうか。仮にこの内の幾つかの策を断行すれば、皇運を挽回し、国の勢いを拡張し、万国と並び立つのも難しくない。切に願うことは、公明正大の道理に基づいて、一大英断をもって天下を一新したい」とあった。

後藤象二郎は建白するに先立ち、薩摩藩を動かそうとして、この八策を小松帯刀と中井弘三に説いた。2人は薩摩藩の温和派で、必ずしも討幕に固執しない人たちだったので、象二郎の説を聞いて2人とも賛成した。象二郎は6月22日に、土佐藩士の寺村左膳、福岡藤次、真辺栄三郎、中岡慎太郎、坂本竜馬と共に、薩摩藩士の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵と三本木の料理屋で会合し、八策を提案した。が、西郷吉之助と大久保一蔵は異議を唱えた。象二郎は一旦土佐に帰り、国論を定めて再び上京することを約束した。このとき協定した薩摩藩と土佐藩の盟約書には、「国体を正しくし、世界の国々に対して恥ずかしくないようにしたい。王政復古は論じるまでもなく明らかである。天下の形勢を察して、正さなくてはならない。国に2人の君主がいてはならず、家に2人の主人がいてはならない。政治も刑罰も、唯一天皇のものとするべきだ。将軍職が政治をするということは、天地の間においてあってはならない。将軍職は諸大名と同列の地位に改め、天皇を上にいただくべきだ。これは急務であり、天地の間に常にこの大いなる条理があり、心を一つにして、何があっても挫けることなく努力し続けるのだ。どうして、それが成功するか失敗するかを顧みているような暇があろうか」とある。

また、盟約書の他の一通には、「天下の政治を決める全権は朝廷にあり、皇国の制度、法則、一切の政治は、京都の議事堂から出す必要がある。議事院を立てるにあたっては、諸藩から費用を出すべきだ。議事院は上下を分け、議事官は上は公卿から下は陪臣・庶民に至るまで、正義感があり純粋な心を持つ者を選出し、なおかつ諸大名もその職掌によって上院の任務に充てる。将軍職によって天下の政治を掌握するという道理はない。その職を辞退して、諸大名と同列の地位に改め、政権を朝廷に返すことはもちろんのことだ。外国との条約については、兵庫港で新たに朝廷の大臣や諸大名の官僚が集合し、道理を明らかにして新しい約定を立て、誠実な商法を行うべきだ。朝廷の制度や法則については、昔から律令制度があるが、今の時勢に照らし合わせて当てはまらないこともある。その悪い風俗や習慣を一新して、地球上に恥ずかしくない国家の基礎を築こう。この皇国の復興に関係する官僚は、私欲を捨て去り、公平な考え方に基づいて、術策を弄することなく誠実であることを尊重し、既存の物事の良し悪しを問わず心を一つにすることを主眼においてこの議論をすべきだ」とある。

西郷吉之助と大久保一蔵らは、以前から挙兵して討幕しようとしており、平和的な解決を喜ばない者たちである。彼らがこの盟約に同意した理由は、小松帯刀や中井弘三らが既に賛同していたこともあり、また、盟約書の論旨ももっともなので、大目に見て好機が来るのを待っているだけだ。こうして、土佐藩は建白の案の草稿を作り、これを薩摩藩邸に届けた。薩摩藩は7月1日に異議が無いことを回答した。しかし薩摩藩の血気盛んな男たちは、「後藤象二郎には佐幕の志があって、公議政体論も我々をだます手段でしかない」と言い、「後藤を斬るべし」などと激昂するものもいた。

後藤象二郎は、芸州と宇和島の二藩も誘おうとして、佐々木三四郎と共に芸州藩士の辻将曹たちを説得し、いずれも異議なく賛同してもらった。6月に伊達伊予守を訪ねて説得した際には、伊予守は疑い迷いながらも同意を表明した。(伊予守は、「道理としては非難するところはないが、時期尚早だ」と言い、「この予想外の論を持って本国土佐に帰り、反対派を抑え込もうという策略ではないか」と疑っていた。)後藤象二郎は7月3日に帰国の途につき、竜馬は月末に長崎に赴いた。

(つづく)

第二十七章は48ページほどあるのですが、今回訳せたのはまだ5ページほど…!
先は長いですが、諦めずにやっていきたいと思います。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!