願うことはいいことか

昨日の帰り道、ふと思ったことがある。

日々の小さな日常の中で、何か大きなことを考える時、少なからず私たちは何かを願っている。願ったり、信じようとしたりする。小さなことだったり、大きなことだったり。

「このままうまくいくといいなぁ。」
「良い人だといいなぁ。」
「来年はこうなればいいなぁ。」

そんなことを、日々色々と思い描いたり、願ったりする。恋愛中は特に、願うことが自然と多くなる。相手のことだったり、2人のこれからのことだったり。自分のことだけじゃなくて、相手のことも願うのだ。もちろん、勝手に。

だけど、この「願い」って時々、呪いのように跳ね返る時がある。昔もたくさん願っていた。穏やかに優しく、純粋に誰かのことを、自分のことを。それはきっととても良いことだろう。その時は。そんな願っている自分が気持ちよく思うし、幸せに想える。想える、願える相手がいること、今があることは幸せだと。

しかし願いはほとんど叶えられないのが現実だ。叶わないことの方が圧倒的に多い。悲しいほどに。それに気づきながら大人になっている自分が確実に存在し、冷めた人間のように感じつつも、これが現実だと思うようになった。

願うことは期待することに繋がる。信じることも同じだ。その通りになるといいな、その通りになってほしいこと。それは勝手な自分の「期待」を作ることだ。

昨日の帰り道、自然と彼のことや家族のこととか、無事でとか元気でとか2人でこれからもと思いかけた…でも、あ、いや、別にどうなってもいいかと。言い方が悪いけど、少し冷めた気持ちも同時に沸き上がった。ふと、そんな風な気持ちになったのだ。雨上がりの雲の隙間から煌びやかに光る満月を見ながら。

「期待しない、信じない」

そんな気持ちの方が大きくなっていた。自分の歩いていく足を見て、そうだ、私は何があったって死なない限りこうやって生きていかなきゃいけないこと。それは誰にも代わってもらえないこと。誰かに支えてもらわなきゃいけないことでもない。実は願っている暇なんてないんだ。願うほどめちゃくちゃ余裕があるわけでもない。そうでしょう?なんて。

それでも誰かを好きになれるし、愛せる、大切にできる。別に願わなくたって彼らは彼らで生きて、きっと幸せになる。挫折もして傷つくことだってあるけど、私がこの2本脚で歩いていくように彼らもそうだ。私が願う必要なんてきっとなくて、過度に信じることなんてしなくていい。私が信じるように彼が生きて、彼らが生きているわけではないのだから。

願うことはいいことかどうか。別にそれもきっとどっちでもいい。想いを寄せる。それだけでいい気がする。ふと思い浮かべて、会いたいな、元気かな。そんな小さな愛おしい気持ちだけでいい。こうなればいいとか、こうであって欲しいなんて願う必要はない。

「 今日という1日は誰かが生きたいと願った1日。」

9年前の今日、3.11 にどこかで見かけた一文。
ずっと、私の心の片隅に残り続ける言葉だ。あの日、無情な光景を目にしながらこびりついた言葉。

そう、願いは儚い。願いなんて、叶わない。無常すぎる、理不尽すぎる自然の摂理を私たちはあといくつ見るだろう。いくつ知っていくだろう。人間の無力さを思い知るだろうか。

ただ淡々と生きていくこと。それ以上も、それ以下でもないこと。そこにただ想いがあるだけでいい。

雨上がりの今日、春の日差しにしては暑いぐらいに光り輝いている。桜並木のつぼみは大きく膨れ上がり、花びらを広げる瞬間を待ちわびているようだった。誰かが願わなくても今年も桜は咲き誇るだろう。遥か昔から淡々と繰り返される営みとして、当たり前に世界中のあちこちで美しきその姿を見せてくれるだろう。

そう、だから願いなんていらない。願わなくてもいい。
それぞれの時間軸で咲き誇り、散っていく定めの中で、私たちは生きていく。それだけで尊く、美しい。

私を生きて、あなたも生きていく。

それだけで十分なんだ。

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