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歴史・人物伝~信長飛躍編③桶狭間の合戦に向けた信長の軍略とは

桶狭間の合戦の当日、沓掛城を出た今川義元の大軍は、兵糧を運び込んだ大高城を目指して、西へと進軍を開始しました。義元の胸中は「大高城に入ってから尾張侵攻の戦いをする」だったと思われます。

その前夜、清州城の織田信長の元に「今川軍が大高城に兵糧を運び込んだ」との知らせが入ります。ところが、家老たちとは軍略の話をせず、いったん各自を引き上げさせるのです。

合戦当日の夜明け前、鷲津、丸根の両砦に今川軍が攻めかかったとの知らせを受けた信長は、意を決したかのように「敦盛」を舞います。そして戦支度を整え、出陣するのです。信長公記はこう記します。

この時、従ったのはお小姓衆の(6人の名前は省略)。これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けた。
※地図と読む現代語訳信長公記より

まさに電光石火のごとく、飛び出していったのです。

明暗を分けた「戦いへの意識の差」

出陣の様子だけを読むと、信長がごく少数の軍勢を率いて今川軍に奇襲戦を挑んだと思ってしまいますが、信長は慎重でした。重臣の佐久間信盛が守る善照寺砦に入り、自軍を整えながら軍略を練ります。

そして、今川軍が東から西へと進軍し、途中の桶狭間で長時間の休憩を取っていることを知ります。清州城からの信長は、北から南へと進んできました。今川軍の進軍路とクロスする場所こそが桶狭間だったのです。

信長は、義元が大高城に入ってしまったら勝ち目はないと考え、「本陣に居る今こそ、義元を討つ千載一遇のチャンス」だと決断。今川軍が各砦の攻略で、軍勢を分散させているのも好機ととらえたのです。

義元は「戦いはこれからだ」と思っていたのに対し、信長は「今こそ戦うべき時」と考えます。この意識の差こそが、桶狭間の合戦での明暗を分けたのではないでしょうか。

次回(26日予定)は、合戦そのものについて書いていきます。



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