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輝く特急座席とハンバーグ

やあ。

高校生の頃。朝の最寄り駅。
有料特急に乗り込むスーツの大人たちを見て、何を思っていただろう。
「たかが1時間弱の椅子のためにサイゼリヤのハンバーグが食える金を出すなんて、奴らはとんだ出不精か大富豪に違いない。」
少なくとも僕はそう思っていたのだった。

人は変わるものである……

今の僕には、あの椅子の安寧が、サイゼリヤのハンバーグ3食くらいなら平気で地面に叩きつけるレベルで目映く輝いて見えるのである。
※サイゼリヤのハンバーグは責任を持って拾って食べます。美味しいので。

だが、決して僕が「出不精な大富豪」になったわけではないのである。
「出不精にはなってないか?」と思った読者諸君。君は明日、角に足の小指をぶつけて痛すぎて倒れたところに、なんか、あれだ。絞りたて雑巾とががあって、顔から突っ込んでその臭いに小学生時代の掃除の時間を想起し、淡い初恋のあの人の顔が脳裏をよぎり、その余りの懐かしさと切なさに打ちひしがれてその体勢のまま1日を終えてしまえ。

…とにかく、今の僕は「高校生の自分の何たる無知蒙昧。有料特急は曇った通勤の空を照らす一筋の光だ。」と、そう思っているのである。僕の価値観が変化したと捉えるのが自然であろう。

この価値観の変化が、金銭感覚の変化によるものなのか、はたまた社会人の疲労困憊満身創痍によるものなのか、僕自身判別がつかない。もしくはその両方なのかもしれない。


という話は一旦置いといて、多分すぐ持ってくるけども。まあ一旦置いといて。

「相手の気持ちになるのだよ」って概念があるじゃないですか。世の中。実際そんな話を僕は書いていたわけですけども。

読んできましたか?面白かったですね。
読まなかった出不精の皆様のためにネタバレすると、「相手の気持ちになんかなれねえけど、人の話はちゃんと聴こうな。」という話で。

2020年の僕は時間の経過による価値観の変化というものを考慮していなかったらしいが、この切り口も面白そうである。

例えば今の僕が高校生の僕に、有料特急の素晴らしさを小一時間語り倒すとして、高校生の僕は考えを改めるかと言われれば、それはやはり難しいんじゃないかと思う。

高校生の僕はどれだけ言葉で説明されても、特急席が光り輝く経験を味わっていない。「はあん。そんなもんかね。」と思ったとしても、「その気持ち、解るで…」とはならないのである。ならないからやはり、「特急席が光り輝くだと…?コイツ狂ってやがる……やっぱりとんだ出不精だ…世界にはこんな奴がいるんだな…」となる。これは共感というよりは、多様性を許容する姿勢の範疇であり、「相手の気持ちになる」には該当しないように思える。

やはり、相手の気持ちになどなれない。と、思いきや、逆はかなり良いところまでいくはずである。

というのは、今の僕が、高校生の僕の気持ちになる場合においてである。

高校生の僕は、これはもう僕であるから、今の僕と同一人物である。高校生の僕は今の僕を経験していないけれども、今の僕は高校生の僕を経験しているのである!

だから、今の僕は、高校生の僕の気持ちになれるはずなのである。もちろん記憶の保たれる限りにおいてではあるが。

この感覚を、過去の自分ではなく、過去の自分に近い環境にいる人に当てはめる。
すると生まれるのが、「経験者は語る」「先人の知恵」「先輩からのアドバイス」なのである。
今挙げた3つは、「なんか結局、合ってるよなあ。」となることがかなり多い気がする。

ということはやはり、過去に自分が体験した環境に対する「相手の気持ちになる」は比較的かなり難易度が低そうである。

とはいえ、自分の経験をもとに「相手の気持ちになる」という行動の本質は変わっていないのであって、精度は高まっても、それでも相手の気持ちにはなれていないということには注意が必要である。

「俺が君くらいの時はぁ〜…」なんて、時代錯誤な嫌われトークの典型もあるじゃろうて。

長々とつらつらと思索を書き殴った挙げ句、特になんの結論も得られていないのだが……まあいつものことである。

大事なことは、「初心忘るべからず」。そして、「ハンバーグは投げるべからず」。以上である。


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