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お金にならなくたって、表現することには大きな意味がある

先日、母のコーラスコンサートを観に行ってきた。


母はわたしが小学生の頃からいわゆる"ママさんコーラス"を始め、所属サークルを変えながらいまも
続けている。もう20年以上になるか。

しかし未だ続くコロナ禍の状況で、コンサートどころか"集まって歌を歌う"という行為自体が難しくなり、また母自身も年を重ね、身体的な衰えからここ最近はコーラス活動について消極的になっていた。

「もうやめようかな」


そんな言葉を漏らすようになった。


家事、仕事をこなしながらのコーラス活動は側から見ても大変そうだったし、わたしは「そんなに辛いならやらなくていいのでは?というか、趣味にそこまでの労力を割く必要があるんだろうか」と疑問だった。


でもその考えは、コンサートを観にいってすっかりなくなった。だって、母がここ最近ではあり得ないくらい輝いていたから。

そんな母の姿を見て嬉しくなったのと同時に、「わたしに足りなかったものはこれかもしれない」と思った。

表現することは人生を歩む上で大事な欲求

学生の頃って、自分から望まなくてもなにかを創ったり、人に見せたり、表現する機会がたくさんある。それは吹奏楽や合唱のような人前に出るものかもしれないし、図工の時間に作ったものかもしれないし、もっと言えばスポーツだってひとつの表現だ。


「わたしはこんなことができます!」
「わたしはこれが好きです!」

と、なんの損得勘定もなく言えたのはわたしの場合学生時代までだった。


社会人になってからは、利益が出せること、見える形で価値を生み出すことがどうしても優先される。だから、なかなか自分で自由に表現するという機会は積極的に求めない限りはゼロの人がほとんどだろう。(なかには「仕事で自己表現してます!」と言える人もいるだろうが..)


「仕事で疲れてそんな気力もない」

「自分の表現するものになんて価値がないからやる意味もない」


そんな考えに陥りがちだ。


でもそんなこと言っても、やっぱり表現することって人間に備わっている能力であり、欲求で、それは抑えようもないものなんだ。


表現すること。それは心を満たす行為であり、働くこと、食べていくことと同じくらい人生において欠かせない。母の輝く姿が、そのことに気づかせてくれた。

わたしのやりたいことの根源ってこれだったのかも


「自分はやっぱり、表現がしたかったんだ」。それに気づけてから、とくになにか特別なイベントがあるわけでもないのにワクワクしている。

わたしがわたしに「すきに表現していいよ」と許可ができたからだろう。
 
コンサートが終わり、母に会うと、やっぱり晴れやかな表情をしていた。コンサートの前は「もうやめようかな」なんて言っていたのに、「やっぱりこれからも続ける」と言った。

表現することは自分の人生を豊かにする。それはお金になるとか、上手いとか下手とか、関係ない。わたしたちは表現する能力があるし、権利がある。それは誰にも止められないんだ。

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